長年読みたいと思っていた岡山県史を手に取って読み始めました。
大変面白く、もっと早く読んでいたら良かったと思っています。(どの分野に対しても同じことを思うのですが…)
ただ、聞きなれない、読みなれない用語が頻出します。私の勉強不足なだけですが..
たとえば、
部民
です。意味は、
部は〈ベ〉とも〈トモ〉ともよむ。日本では大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団をいう。
です。
意味を調べているうちに県史とは別のことを調べはじめるのは、いつもの通りです。
断捨離は仏教の教えですよね?
と聞かれることがありますが、断捨離は仏教の教えではありません。
調べると提唱者の名前が出てきたりしますが、ある程度の伝統宗教であれば、つまるところシンプルライフ的なものを提唱しますので、断捨離というのはどこにでも当てはまるようなものだと思います。
断捨離に関する本などもいろいろと出版されているようで、断捨離のススメなどいうことなのだと思います。
基本的には必要ではないものを捨て、必要ではないものを求めないということが大事なのですが、現代社会は如何に必要ではないものを必要であるかのようにイメージさせて個人に取得を促すシステムになっていますから、断捨離をする方も必死にならないと、なかなかできないということがあったりします。
断捨離したものと同じものをまた買いました。せっかく捨てたのに。。
なんていうことも多いようです。
なので、あまり捨てるということを大事にするよりも、まずは身の回りにあるものを大切に使うということからはじめてみてはいかがでしょうか。
磨けるものなら磨いてみる。
ぐちゃぐちゃにおいているものなら、まっすぐ整える。
汚れがついているなら拭いてみる。
そうして、ものを大切に使うと、自分に必要なもの、必要でないものも自然と見えてくるのではないかと思います。
今日も誠に暑くなりました。
自動車の温度計を見ると、日中は38度とありましたから、まだこんなに暑くなるのか…と思います。
昨年も暑かったということですが、では昨年の今日の気温を調べてみようと思いました。
こちらを見ると、昨年の9月9日の倉敷の気温は、
32.8度
で、今日の倉敷の気温は、
34.9度
でした。
気温などは一日だけで比較してはいけないのですが、9月は昨年よりも暑い日が続いているようです。
お陰様?で草木もぐったりです。
毎年元気なはずのひょうたんやゴーヤも実も少なく、緑のカーテンにもなりません。
そのような中で、
ハイビスカスと雑草だけは元気に成長しています。
すごいなあと素直に感心しています。
本日は、御報恩御講を奉修しました。
まだまだ暑さが続く中、御参詣の皆様と大聖人様への御報恩を懇ろに申し上げました。
また、竜口法難会も合わせて奉修し、謹んで御報恩謝徳申し上げました。
皆様には御参詣誠にありがとうございました。
法話では聖人知三世事についてお話ししました。
大聖人様は三世を知る人が聖人であり、真の聖人は法華経の行者であり、その法華経の行者こそ日蓮であると御教示になられています。
私たちは今を生きることで精一杯で、三世の中で生きていることを意識することは大変難しいです。
なぜなら私たちは聖人ではないからです。
それゆえ、三世を見ても、間違って意味づけをしたりしてしまいます。
病気の人がいたら、過去の業がなどと勝手なことを言い出してしまうのです。
私たちは人生において様々な苦難を受けます。
その苦難に対して良い意味づけができるかどうかで人生は変わります。
その意味づけ、過去現在を通して自分をみるためには、三世を知る聖人の御教導にあずかるしかありません。
苦難の人生にあっても真の喜びを見いだされた大聖人様の御教示を学び、三世を生きてまいりましょう。
本日は宗祖日蓮大聖人御逮夜法要を奉修しました。
本日も大変暑くなり、夕方の時間になっても暑さは続きましたが、謹んで大聖人様への御報恩を申し上げました。
法話では聖人知三世事についてお話ししているのですが、ここ数回、三世を考えさせられる御書を拝読させていただいております。
三世の理解は凡夫には到底至らないことですが、人生を考える上で三世は非常に大事な視点になると思います。
三世は重大な意義づけをしてくれる一方、自他共に乱暴なレッテルを貼ることになりかねません。
大聖人様のご教導を拝して真摯に受け止めなければならないことです。
子どもたちから死後の世界の質問を受けることがあります。
最初は死後のことを一生懸命説明していましたが、どうも子どもたちに響いていない感覚がありました。
ある時、
怖いの?
と尋ねると、
うん、怖い
と答えた後、いろいろな思いを話してくれました。
一概には言えないのですが、相手がお子さんの場合、死後の世界への興味よりも恐怖の方が強いのではないでしょうか。
ですから、こちらが答えることよりも、お子さんの思いを話してもらうようにすることが大事かと思います。
以前、養老孟司さんの講演で、
人生において痛みに対して意味づけができることは、とても重要なことで、宗教や哲学など様々な物事が取り組んできた
というようなことを仰っていました。また、ヴィクトールフランクルのことにも触れ、痛み、苦難、その受容についても大変重要なことだと仰っていました。
その上で仏教の四苦八苦は特異な受け止め方でもあることを指摘されていました。
現代は痛みに対して、回避の方法を示すことはありますが、何かしらの意味づけはできているのでしょうか。
意味づけすること自体が無駄なのでしょうか。
うた
は、
歌や詩や詠などの字がありますが、
唄
という字もあります。
何が違うのだろうと調べてみましたが、民謡などのことを意味しますが、この唄を
バイ
と読んで、
仏徳を讃える歌謡
の意味があるようです。
当門流にはあまり聞き馴染みのない言葉ですが、声明に関わる用語としてもあるようです。
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