デジタルの時代になって、ペーパレス化をすすめているとはいえ、なかなか無くせないのがスケジュール帳。
今年もやっぱり準備しましたが、ここ数年は自作しています。
いつも利用させていただいているのが、
https://www.arachne.jp/calendar/
こちらのサイトのカレンダーです。
これをA6サイズに印刷して、真ん中でおり、重ねて、背表紙部分に木工用ボンドをつけて背表紙をはり、重しを乗せて固まるまで待ちます。
…という作業部分を写真に撮ればよかったです。
ということです写真はありませんが、無事完成しました。
大聖人様の御書の中に、かわのりをいれた「かみぶくろ」というものがでてきます。
紙袋であれば、なんとなく想像できますが、私たちが想像できる紙袋は、近代になって作られたものです。
鎌倉時代に使われていた「かみぶくろ」ってどんなものだったのでしょうか?
調べてみても、これだというものはありませんでした。
紙を折り返して袋状にしたものや、中には糸でとめたようなものもあったようですが、定かではありません。
もう少し調べてみたいと思います。
今日訪問した御信徒からリュウノヒゲのことについて教えてもらいました。
いつもとてもお庭を綺麗にされているので、どうされているのかをお聞きしていたときにリュウノヒゲが青々としていたので、育て方を聞きました。
枯れた葉を丁寧に取り除くこと。
少しは肥料を与えてあげること。
水もしっかりあげることだそうです。
そのお宅の土はどこを触ってもフカフカでした。
土づくりは1日にしてならず。
勉強になりました。
ペーパーレスの時代と言われて随分経つと思いますが、いざペーパーレスにしてみようと思うと、なかなか難しいなと思います。
pdfなどで気軽に閲覧できる、また気軽に保存できるようになりましたから、そもそも以前に比べて紙を扱う量が減ってきています。
この調子でペーパーレスをどんどんやるぞ!…となると、どうしてもペーパーレスにできないものがあることに気がつき始めました。
これって大事なことかなと思います。
無駄なことをしていた部分は削っていき、削っていく作業でやっぱり必要だったものに気付くということがあるからです。
むしろ以前より紙であることの大切さを感じるようにもなりました。
考えてみれば、ペーパーレスとペーパーが共存すれば良いだけのことなんですよね。両極端ではなくて。
ペーパーレス化に取り組んで初めて気付いたことでした。
よく宗教の違いを、登山に譬えることがあります。
どんな宗教も目指すところは一緒。
登山も同じ。
山のいただきは同じなのだから、登り方が違うだけ。
というものです。
とても納得しそうになるのですが、でも本当に山のいただきは同じでしょうか?
たしかに、安心を得たい、幸せになりたいという目的意識は一緒だと思いますが、それぞれの宗教が示す頂きの姿は随分違うと思います。
登った先は同じだからと、変にうやむやにするよりも、他宗教を尊重しつつ、違うことは違うと言うことも大事だと思います。
大聖人様のご教導には、
一心に
や、
一行に
と示されます。
以前、
いろいろなことを試してみたけど、どれも中途半端だ
というご相談を受けたことがあります。
いろいろできるだけですごいじゃないかと羨ましく思うのですが。
大聖人様は、
あれもこれも
とは仰らないので、いろいろやるというよりも、まずは一つのことにちゃんと向き合うということが大事なのではないかと思います。
現代はできることが多すぎて悩ましいともいわれます。
確かにそうで、無責任に
何でもできるのだから、何をしてもいいんだ
と言うのは、ある意味、悩みを増やすだけなのかもしれません。
石の上にも三年
などど言うのは、たいへん古いことだとされるのかもしれませんが、多くの皆様の体験談を聞いていると、まずは一つのことをコツコツと、というのが何より大事なのだなと思わされます。
銀杏も綺麗な黄色になってきました。
でも紅葉は相変わらず葉っぱが枯れたような感じです。。
それにしても紅葉は写真に撮るのが難しいです。
何の気無しに撮影された秋の写真などを見たりしますが、自分で撮影してみると本当に難しいです。
そういえば、いつもこの時期満開になるシキザクラも今年はあんまり咲きません。
でも小さくて可愛い花が少し咲いてくれています。
本日は、誓願題目講を奉修しました。
秋晴れの中、御参詣の皆様と一時間の唱題行にしっかり励むことができました。
御会式に引き続き御参詣を賜り、本当にありがとうございました。
題目講終了後、お茶をいただきながらゆっくりお話しをすることができました。
歳をとっていく大変さや、最近の流行り、学校事情など、話題は多岐にわたりましたが、信心を通して考えていくことも多くあり、大変勉強になりました。
世代はそれぞれ違いますが、感じるところは意外と年齢には関係ないということをあらためて思います。
歳をとっても若い見方を出来る人、若くても落ち着いた物事の見方が出来る人。
世代で人間のあり方を分けるのはあんまり良い見方ではないのかもしれません。
SNSが誰もが使える、誰もが使われる媒体となって久しいのですが、何か事が起こると、
SNSのおかげだ
SNSのせいだ
という意見をききます。
猫も杓子もSNSを理由にしておけば、何だか納得…するわけがありません。
ずいぶん前に、
子どもの問題は「ゲーム」のせい
という、これも何もかもがゲームのせいにされる時期がありました。
こういう現象は物事の一面をとらえているだけで、なんら意味をなさないものです。世の中は複雑で、多くのものごとが影響し合っているのですから、答えをあせって求めないで、様々な方向からじっくり考えていかなければ、本来の姿は見えてこないと思います。
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