アリが家の中の甘いものまで探してくることができるのは何故だろうか?
という質問が子ども科学電話相談に寄せられていました。
https://www.nhk.jp/p/kodomoq/rs/P3X5LNZ17X/
アリの行列を見ると、遠くの甘いものに辿り着くとは到底思えない。
でもアリはどこにでもいます。
どうも行列から外れていくアリが定期的に存在するからだそうです。
その外れたアリが新たな食料を見つけてくれる。
アリが力強く生き抜いている理由ですね。
多数が少数を否定する社会に未来はないのかもしれません。
今日は最高気温が13度ほどでしたが、体感ではもっと寒く感じました。
こんなに寒い春もあるのだなと驚いています。
ちなみに昨年は、
最高23.1 最低13.8
でした。
ポカポカ陽気というところでしょうか。
やっぱりこんなに寒い春はおかしいと思ってしまいそうですが、一昨年の気温を調べてみると、
最高14.7 最低11.5
でした。結構寒い。
調べてみると4月は結構寒い日があります。
まさに寒の戻り。
風邪をひかないように気をつけてお過ごしください。
備忘録的に書きます。
熱原法難の農民たち。斬首された三人の名前は、
神四郎
弥五郎
と、
弥六郎か弥次郎
の二つの見解があります。
なぜ二つの見解があるかというと、「弟子分本尊目録」の正本に欠損があるためです。
いくかの資料の記述を見ると、
(郷住人)
一、富士下方熱原□□□□□郎。 『歴代法主全書』
一、富士下方熱原郷住人彌次郎、 『日蓮宗宗学全書』
一、富士下方熱原郷住人彌次郎。『日興上人全集』
とあります。
弥次郎との表記が見られるのは、北山本門寺の日優師の写本が残っているからです。
日優師の写本には誤記は見られるものの、他の写本に比べても正確さが担保されているので、諸本において「弥次郎」と表記されています。(「「日興上人全集」正篇編纂補遺」大黒喜道 興風11号)
多くのは弥次郎と表記されているのですが、弥六郎との見解は、堀日亨上人のもので、「そもそもこの三人は兄弟であるとの説があるため、もし兄弟であるならば、「弥六郎か弥七郎」と表記されるはずであり、後の研究につながるように「弥六郎」とした」とされています。(「熱原法難史」堀慈琳)
最近は何をするにも書類に署名をして…というのが多くなってきました。
それだけいろいろなことへの配慮が行き渡るようになったという証なのですが、それにしても多い。
あまりに多すぎるので、概要を説明したら細かなところは互いに確認も取れないくらい。
ここまでくると何となく儀式のような…、と思って改めて考えてみると、これは儀式の一種とも言えると思います。
昔は起請文などもあって、こういうものが効力をもって互いを結びつけていたわけで、その起請文は非常に儀式的な物です。
今の書類の契約、書名、捺印…の一連の行動も、とても儀式的だなと思ってみていると、不思議と煩わしさも消えてくるような…?
解釈の違いがあることは、混乱を与えることにもなりますが、解釈の違いを認識することで、自分の理解を深めることもできるのではないかと思います。
多くの解釈があることを全面的に肯定はできませんが、一つの解釈に凝り固まる怖さもあります。
信心している人が信心していない人と話をすることで、自分の信心をはじめて深めることができることも同じことかと思います。
問題はその違いをどのように乗り越えることができるかでしょうか。
そこには人間の品性が関わるように思います。
先輩僧侶とお話ししていて、教えてもらったのが、
今頑張っていることは、今の結果にはならないかもしれなけど、次の世代にちゃんと残る。だから頑張ろう。
ということでした。
確かにそうです。
前世代の方が頑張ってくれたものが今残って私たちを支えてくれています。
今の結果に見えなくても、次の世代のために頑張る。大事なことだと思います。
蓮の土を作りました。
今回は赤玉土の小さいものと腐葉土を7:3の割り合いで混ぜ込んだものを作りました。

土が少し落ち着いたら、蓮根を植えることにします。

昨年までは、前年の土をそのまま使っていたのですが、今回はいったん新しくすることにしました。
土は、半年前くらいから作って準備する人もいらっしゃるそうです。
うまくいけば六月後半くらいから、花を楽しめます。
今日、保育士さんから聞いた話ですが、最近の子ども達は言語の発達が少し遅いそうです。
これが原因とははっきり言えないものの、身の回りにある様々な端末などを幼い頃から利用することによる影響もあるそうです。
自分の気持ちや考えを言語化することは人間生活をする上で欠かせないことなので、言語の発達が遅れることは問題も多くなるのではないかと思います。
これもあるところで聞いたことですが、昔、親子でよく行っていた手遊び、歌遊びなどを現代の親御さんはあまりしないそうです。
言語の発達は、言語を覚えて話すと言うことより、人間との触れ合いによって自然と生み出されるものではないでしょうか。
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