本にしろインターネットにしろ、SNSにしろ、とにかく
「簡単にいうと…」
というのが溢れていると感じます。
簡単に言えば分かりやすいのですが、とはいえ、それはただ分かりやすいだけで、その物事の大事なところは結局語れていないことがほとんどです。
それでもいいから簡単に言ってくれという風潮があるのもよくわかります。
情報過多の時代、一つの情報に時間をかけることができない。
でも、やはり物事の本質をとらえようと思うなら、難しいことをじっくり聞いて、考える必要があると思います。
つまり、
言う方は簡単に言いたいことを避けて、しっかり調べて、じっくり語る。
聞く方は簡単に聞けることで分かったつもりにならないで、じっくり聞いて、しっかり考える。
ということをお互いに意識していないと、薄っぺらい理解ばかりが増えていく…ではないかと、結局自省するのです。
本日は寺院清掃を行いました。
朝から気温も上がり過ごしやすい天候の中、皆様が心を込めて清掃をしてくれました。
ご参加頂き本当にありがとうございました。
終了後、お茶をいただきながら、今年の夏の暑さで疲れが出ている方が多いという話になりました。
どうもいろいろな形で体調に出てしまっているようです。
少しゆっくりする時間を作って、身心を休めてください。
いつの間にかキンモクセイが咲きそうです。
良い香りを届けてくれると思います。


たまねぎを植える下準備をしています。
今年は秋が深まるのが早いというか、もうすぐ冬になるんではないだろうかという気候なので、少し急いで準備をしています。
例年はもう少し遅く、しかも晩生を植えていたのですが、晩生は収穫時期が梅雨にかかってしまうこと、猛暑の影響で保存が難しいので、今年から早生のたまねぎを受けることにしました。
そういえば最近耕さない農法があるということを御信徒から教えてもらいました。
耕すのが当たり前だと思っていましたが、当たり前を疑うことで、新たな手法が見えてくることがあるようです。
文字を繰り返すときに同じ言葉をそのまま書くのではなくて、記号のようなもので表記する、その記号のようなものを踊り字といいます。
たとえば、
散々
の
々
は漢字ではなくて、繰り返し記号です。
…という知識は、踊り字のWikipediaの記事から参照しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%97
調べたかったのは、平仮名の繰り返しの記号で、二文字を繰り返すとき、
たとえば、
さんざん
を
さん〴〵
のようになりますが、この
〴〵
の横書きの場合の、正式な表記はあるのかなと思ったからです。
そもそも、横書きではこの繰り返しの記号は使われることはなく、横書きかつ画面上や印刷上の表記という特殊な場合に使うことになりますので、縦書きに準じた表記ということになるようです。
本日はお花づくりを行いました。
朝からあいにくの雨模様でしたが、足下の悪い中大勢のご参加をいただき、無事にお花を作ることができました。

話にも花が咲いて、楽しい時間となりました。

終了後は、みんなで昼食とぜんざいをいただきました。
急に冷え込んできたので、温かいものを食べて体もポカポカになりました。
皆様本当にありがとうございました。
おべっかは相手のご機嫌を取ろうとして、へつらったり、本心でないお世辞を言ったりすることで、文章の中で使ってみたのですが、そういえば日常で
おべっかを使う
とか
おべっかを言う
ってあまり使わなくなったように思います。
以前は使っていたのかといえばそうでもないんですが、あまり聞かなくなったなと感じます。
おべっかの語源は、言い方、口の利き方が上手な「弁口」(べんこう)に「お」がついたものが変化したらしいです。
おべんこうがおべっか。
ちょっと遠い気がします(笑)
以前使っていた芝刈り機がガタガタいうようになっていたので、手入れをしました。

フタを外すと、

こんな風になっているので、掃除をしてからタイヤを外し
油を指して

歯車の掃除をして、とりあえず動くようになりました。
良かったです。手入れをしてあげなくてごめんなさい…という気持ちになりました。
本日は誓願題目講を奉修しました。
昨日から旧に冷え込むようになりましたが、寒さに負けないで唱題行に励むことができました。
また朝から、お花づくりの作業も行ってくれました。

楽しい会話が交わされながらも、どんどんどんどんお花ができていきました。

たくさんのお花が完成しました。
ご協力頂き本当にありがとうございました。
葬儀を捉えるかということは、宗派によっても違いますし、そのお寺さんによっても違います。
臨終する人、その臨終を送る人、それぞれに捉え方も違います。
ですから、これが葬儀である、こうでなければならない、と断定的に言うことは、思っている以上に難しい事だと感じています。
葬儀をしないという人も出てきて、そういう人は、死後の世界などの関心は少ないのでしょうし、関心を持っているといっても既存の形式にはよりたくないという抵抗感もあるんだと思います。
ただ、葬儀は送る人のためにあるという考え方は、やっぱり納得できません。
送り人のメリットがあるから葬儀をするということであれば、結局葬儀という儀式は廃れていくように思います。
臨終を迎えた方の、その魂(魂魄というだけでなく、その方の思い、情念など広い意味での魂)のために手を合わせるという、見返りを求めない心があればこその葬儀では無いでしょうか。
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