本年は、昭和100年、戦後80年の年です。
この100年は激動の時代だった言われます。
その他の時代も激動でしたが、確かにこの100年は歴史上稀な時代であったと言えるかも知れません。
それは、昭和20年までの間に世界中で大変な数の方々が戦争で命を落とし、その後、日本においては80年間、あの悲惨な戦争の戦後として時間が流れてきたからです。
あの戦争をどのように受け止めるべきなのか。
今後に繋げていくべきなのか。
これまでの80年がそうであったように、今を生きる私たちの大きな課題です。
その課題の答えを見つけるためにも、自分なりに戦争に関わった人々の戦後の発言を読んでいます。
しかし、その発言者の地位が上がれば上がるほど、これは大変失礼であるのを承知で述べるのですが、結局のところ、当事者同士の壮大な言い訳合戦が行われているだけで、何も本質的なことは語られていないと感じるのです。
そのうちに思考停止に陥ってしまい、
「あの戦争に負けて良かった。あの戦争に負けたおかげで、自分は戦争にいかなくてすむ」
と思ってしまいます。
その方が楽だからです。
でも考えるのを止めてはいけません。なぜなら、考えるのを止めてしまったら、また同じ過ちを繰り返してしまうと思うからです。
「考えたって何になる?」
という人もいるでしょう。でも多くの人が言っているように、考えることを止めたとき、ことはあらぬ方向に進み出してしまいます。たとえ解決策がなくても、打開案が思いつかなくても、歴史の中に答えを見いだすことができなくても、考えている間は断定的な行動をすることはないはずです。
考えなくなれば、これだと思うことに終始し、別の見方も他者の見解もくみ取ることができなくなってしまいます。
「考えているばかりでは何もできない」
という人もいるでしょう。実行力が大事だという人もいます。災害などの緊急事態のときには考えていると遅くなる…。それは緊急事態が起きてから考えるからいけないのです。起きる前から、みんなで考え続けることで、不測の事態にも対応できるはずです。
80年前に起きたことは、確かに難しい問題で、私では何一つ答えを見つけることはできません。
それでも、考えなければなりません。
歴史家の磯田道史は、
「その事実を自分という一人の人間として許せるか許せないかを考えなければならない」
と仰っていました。
大きなくくりで考えることも大事ですが、起きた事実を自分という人間を通して考え判断することが大事なのだと思います。
これから先の人々が考えるのを止めてしまわないようにするためには、まずは今を生きる私たちが考えることを続けていかなければなりません。
単純明快な思想や扇動的で安易な答えに飛びつくのではなく、私も常に考え続けていきたいと思います。
戦没者諸精霊へ謹んで御回向を申し上げます
親の介護はしなければならないのですか?
というような相談を受けたことがあります。
当たり前だ!なんて親不孝者だ!
と怒る方もいらっしゃいますが、現在の介護問題の状況を考えると、いろいろなことが心配になって上記のような思いを吐露する気持ちも分かります。
また、親子関係はとても複雑なものですから、
そんなこと当たり前だ!
では片付けられない現実があるのだと思います。
そういうとき、
しなければならない
という言葉の重さが事を悪くしているなと感じることがあります。
真面目な人ほど「しなければならない」に義務感や責任感を強く感じて、疲れてしまうように思うのです。
お寺にいると、いろいろな別れに巡り会います。
その中には、親の介護ができない急な別れもあります。
このような別れの場合、したいけどできくなったしまった親への思いをどこに向けて良いかも分からないということがあって、これはとてもつらいことでもあります。
そう考えると、
しなければならない
よりも、
私たちはすることができる機会に恵まれた
というような感じで思うことができれば、少しは不安を和らげることもできるのではないかと思います。
本年の春季彼岸会法要の法話をここに掲載いたします。
コロナ禍が始まって約3年でしょうか。気付けば大変な月日が過ぎました。その間、私たちの生活スタイルも随分変化しました。一応、コロナ禍も終息の方向に向かっているとのことですが、一度変化したものをまた戻していくということは大変なことだと感じています。こうやってコロナ禍も終息していく時に当たりまして、もう一度コロナ禍で感じたこと、学んだことをここで振り返っておかなければならないという気持ちになりまして、またそのような中で大聖人様の御書を多く引いて、私たちの励みとしてきましたので、今日はそのことについてお話しをさせていただきたいと思っております。
このコロナ禍は、中国で2019年の12月初旬頃から始まったと言われています。日本で報道されるようになったのは、2019年の年末から2020年の年明け頃ではなかったかと思います。その2月末で小中高の学校が一斉休校になりました。そして、4月には緊急事態宣言が出ました。あの時は緊急事態宣言が出たということでとにかく驚きと不安といろいろなものが入り交じりながら、日々を過ごしていたように思います。
そこから結局ずるずると三年の日々が過ぎたように思います。当初はとにかく未知なるものが相手ですから、目には見えないし、どうしたら良いのかという感じでした。またご不幸も続きましたから、やっぱり誰もが怖かったと思います。ところがすぐに皆さんうっすら気づき始めました。
「怖いのは病気では無い、人間だ」
ということですね。病気よりもよっぽど人間のやることの方が怖かったわけです。そもそも病気にかかるのは誰のせいでもありません。人間がどうこうして何とかなるものであれば、そもそもこんなに流行するわけないんです。もちろん病気にかからないように気を付けることは大事です。でも誰もが病気にかかることだってある。ところがあの人が病気になったと噂したり、悪口や嫌がらせをしたりする。それも半端じゃなかったですね。
そういう中で、皆さん暗い顔をされている方が多くおられたように感じました。そこで、大聖人様の御書から、次のようなお言葉をいただきました。
「つねにめるすがたにておわすべし。」『八幡宮造営事』
この言葉は大聖人様の檀越である池上兄弟が窮地に陥ったときに、
「あなたたちは何も悪いことはしていないのだから、毅然とした態度で、しかし、にこやかに日々を過ごしていなさい」
という御教示です。この御教示をもって考えれば、たしかに病気相手に、また人相手に怒ったり、不平を言ったりしても仕方ないんですね。そのようなことをしても意味も無く、そしてとても疲れてしまいます。ですから、気持ちだけでも明るくにこやかに過ごしていきたいということで、とても支えになったお言葉でした。
一方で寺院としても寺院行事などの活動や法事などをどうやって差配するべきか悩み考えることも多くございました。ただ考えてみれば、こういった難しい状況は今に始まったことではありませんでした。人間関係が希薄になり、宗教離れが叫ばれている状況は、もう何十年も続いています。ですから、気持ちを切り替えて、よし、ちょっといろいろなことをやり直してみようということで、新しく取り組むようなこともでてきました。そういう時に励みになり、また皆様にご紹介したのが、
「仏法を信じて今度生死をはなるる人の、すこし心のゆるなるをすすめむがために、疫病を仏のあたへ給ふ。はげます心なり、すすむる心なり。」『閻浮提中御書』
という御教示です。大聖人様御在世の時代も疫病がなんども流行していました。今の人たちと同じように人々は右往左往していました。現代のように医療も発達していませんから、ちょっとした風邪でも命を失うような時代です。それは右往左往しても仕方がないと思います。そういう状況にあって、この御教示のように、
「仏法を信じて今生に生死の苦しみを離れようとする人が、少し心がゆるんだので、それを正しい道に戻そうとして、仏が疫病を与えられたのであり、これは激励のため、勧誡のためである」
という視点、ものの見方や捉え方は、本当にすごいと思いました。
私たちはコロナ禍を通して制限有る生活をしなければならなくなりました。外食ができないとか旅行ができないとか、人との交流ができない、そういう状況になりました。それは大変なストレスで、病気にかからないまでも体調を崩してしまうような方が多くいらっしゃったようです。
でも、考えてみればいつでも外食できる、旅行ができる、人とも会えるというほうが本当は稀なことであったんではないでしょうか。いつも私は師匠から言われるわけですが、「お前達は毎日正月だ」とこういわれるわけです。師匠よりもっと上の世代の方は、戦前戦中戦後の苦しい時代を生きてこられています。そういう人たちのコロナ禍に対する受け止め方はまた違ったものがありました。
ある90歳になろうかという女性の方とお話しをしていたときのことです。「私は戦争でとにかく苦労しました。長生きしてきて、またこんな事態に遭遇するとは思ってもいなかった。あぁ長生きしてきて良かった。」私は「あれ?」と思いました。「もうこんな思いするなら長生きするんじゃ無かったと仰るかな」と、不謹慎ですけど、そう仰るかなと思ったんです。でも違いました。これも長生きしていたから経験できること。苦労だって生きているから経験できること。有り難いことなんですよと教えてくれたわけです。
私たちは考え方や捉え方次第で、生き方は随分と変わってきます。そういう経験を多く聞く中で次の御教示が身にしみました。
「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。」『四菩薩造立抄』
大聖人様は決して恵まれた環境にあったわけではありません。むしろ当時の人から見てもひどくつらい状況だったわけです。でも大聖人様はその状況を恨むこと無く、信心の観点から自分自身の人生を語ります。日蓮は俗世間では日本第一の貧しき者であるけれど、もし仏法の上で論じたならば世界第一の富める者であります。今の私たちの大きな励ましとなる御教示だと思います。コロナ禍を通して、皆様も自分たちにとって大切なものは何であるかを考えたことと思います。
きっとその中には、今日お詣り頂いたように、手を合わせることの大切さ、仏様を感じることの幸福感も含まれていることでしょう。そのような気付き、これは宝だと思いますが、その宝をコロナ禍が終ったら、すっかり忘れてしまったではもったいないと思います。
コロナ禍は、もちろんこれからどうなるかわかりませんが、終息していったとしても、また同じようなことは起こるかも知れませんし、もっとつらいことや悲しいことがあるかもしれません。そのようなときでも、この数年で経験したことはきっと皆様の支えや教訓となってくれると思います。ぜひこれを機会にもう一度振り返って頂いて、皆様にとって大切なものは何であろうかを考え直す機会にしていただければと思う次第です。(合掌)
ときに自分が批判的になりすぎるきらいがある…、と若い時分に思っていたことがあります。
なにを見ても、なにを読んでも、とにかく批判から入る。
自分としては、それで良いと思っていたけど、他人から見ると、その批判的な姿勢はある意味滑稽なものに見えていたようです。
それに気付いて、とにかく一回批判的な姿勢を止めてみると、とても気付くことが多くあることがわかります。
なにを見ても、「大変な思いがあったのだろう」「こういう苦労があったのではないか」「こんな工夫のしかたもあるのだな」といろいろと学ぶことができます。
そして、その上で「批判するべきことを批判する」姿勢というが出てきました。
そうすると、それまで滑稽に見られていたその姿勢が、実に理解をもって見て下さるという変化を生んだのです。
決して「批判するな」と言っているわけではありません。
ただ、やみくにも批判するだけではいけないということです。
御信徒の過去帳をめくると昭和20年に至るまでに亡くなられた方のお名前を目にします。
なかには、戦地にて亡くなられたことが横に記録として書き添えていることもあります。
どれほどのことがあったのか想像だにできないのですが、しかし、多くのお名前を見るにつけ、戦争の残酷さに胸が痛みます。
ある方から、下記の本を教えていただきました。
ペリリュー島で起きた戦闘をもとに描かれた本です。
中には作者が戦争を語ることの難しさも吐露されています。
戦争を語らなければならない。
しかし、戦争を知らないのに語ることができるのか、語ってよいものなのか、自問自答が繰り返されます。
ただ、ふと気が付きました。
戦争を経験していない人が戦争を語ることは、それだけ、戦争をしない時代があったことの証明でもあります。
そう思うと、これからも戦争を経験していないで戦争を語る人が増えることを強く望みます。
この時期になると草花がいっせいに伸び上がってきます。
花々の姿に元気をもらえるのですが、雑草たちの元気さには勝てません。
抜いている側から生えてくるのではないかと思うほど、雑草たちの生きる力には、
神秘なるものを感じるほどです。
もうずいぶん前のことですが、草引きをしていると近所の子どもに声をかけられたことがあります。
「草抜きしてるの?」
「はい、そうです。」
「なんで?」
「草を抜かないとどんどん生えてくるからね」
「でも、草だって生きているのに、抜いたら可愛そう。」
「…、ほんとうですね。可愛そうですね。」
「うん。」
その後、私たちはたくさんの命の上に生きているということを少しお話ししました。
その子に伝わったかどうかはわかりませんが、自分の中には今でも重く残っている出来事です。
たしかに草花にも命はあります。
でも時にその草花を摘むことも必要です。
それは生きていく上でどうしても行わなければなりません。
食べることも同じです。
多くの命を頂いています。
植物は声を発しないから、無駄に奪って良いわけではありません。
どんなに理屈や理由をつけても、私たちは生きる上で多くの命に支えられている事実は変わりません。
だからこそ、感謝をしなければいけないし、
無駄に奪ってはいけないのです。
またどこかで書こうと思っていますが、
以前一般の方から相談を受けたときに、
「それでも、あなたのいのちは大事ですよ」
とお伝えしたことがあります。
その方と後日再会したときに、
「あのとき、いのちは大事だと言って下さらなかったら…」
と仰いました。
また、
「世間では、誰も、いのちを大事にとは言ってくれません」
とも仰っていました。
寺院にいれば、いのちは大事であるということは、
自分も言うし、御信徒ともいつも確認しあっています。
でも、一歩世間にであると、
「いのちを大事に」
という当たり前のことが、語られることがないのだと、
改めて痛感しました。
たとえ、うるさがられても言っていかなければいかないのだと
思っています。
いのちは大事です。
いのちを大事にして下さい。
《ひとこと法話》
利他(りた)
最近、巷で「利他」ということが見直されているようです。著名な経済学者も、
「コロナ禍を通して、利己主義になりすぎた世界が「他者のために生きること」に立ち返らなければならない」
と声を上げています。特に若い世代では利他に強い意識があるようで、コロナ関連で寄附行為を行った年代を調べると、若い世代ほどその割合が高くなります。この意識は政治的なことに留まらず、ビジネスの間でも注目されています。以前より京セラの稲盛和夫氏がビジネスと利他を経営哲学として語っておられますが、若い世代でも利益追求型から循環型の経営手法を実践するなど様々な動きが見られるそうです。(「「利他」とは何か」集英社新書)
一方で利他に関する課題も指摘されています。一つには、今世間で言われるところの利他とは「合理的利他主義」「効果的利他主義」だという点です。最も合理的に、また最も効果的に他者に施すことが自己の利益にもなるという考えです。一見すると良い考えのようにも思いますが、経済的な見返りや数の最大化が見込めない対象は切り捨てられてしまうという問題を抱えています。
それから、他者に施すにしても、「何を施せば良いのかわからない、かえって迷惑になってしまうのではないか」という、利他がおしつけになってしまう懸念です。たとえば、電車で席を譲り合う場面です。好意で席を譲ったつもりが、相手が断り、断るどころか辛辣なことを言われてしまったという話を聞きます。その他にも社会的弱者に対して、支援をする側と、支援を受ける側のすれ違いは多く存在します。
これらの利他の良い面悪い面を見るにつけ、もう一度「利他」について考えなければならないという思いを強くしました。
まず、利他とはどういう思想なのかおさらいします。
世間一般で用いられる「利他」とはフランスの社会学者によって造られた考え方です。自分の利益よりも他者の利益を追求する思想です。この思想が日本に輸入され翻訳される際に、「利他」という仏教用語が当てられました。ですから、厳密に言えば世間で言うところの「利他」と仏教の教えに基づく「利他」は意味が異なります。
仏教で言うところの「利他」は「他者を利益することで、自利に対する語。自分の功徳や利益を他に施して救うこと。」という意味です。
では、世間の「利他」とどこが違うのかと言えば、それは大きく二つの観点があると考えられます。
一つは、「利益」に関して。もう一つは、「誰のために行なうか」に関してです。
利益は、一般的には「りえき」と読みます。この場合、意味としては「自分の得になること。儲け。」などを意味しますので、どこまでいっても損得ということが関係します。
一方で、仏教では利益のことを「りやく」と読みます。意味としては、「神仏や教えからの力によって授けられる功徳のこと。」です。つまり、そこに自らの損得感情はありません。損得がありませんから、自分に対しての見返りなども一切求めないのです。
「四無量心」という教えがあります。仏様が持つ四つのはかり知れない利他の心のことです。その四つは、
慈無量心…衆生に楽を与えること
悲無量心…衆生の苦を除くこと
喜無量心…先の二つを喜んで行うこと
捨無量心…見返りを求めないこと
です。何より注目すべき事は、四番目の捨無量心です。私たちは他人に何かを施すとき、どこかに見返りを求めてしまいます。ですから、相手の反応によって自分の行為を評価してしまいます。先の例でいえば、席を譲るという立派な行為をしたにも関わらず、相手の辛辣な態度に、自分の行為まで否定された気持ちになってしまうのです。ところが仏様は違います。私たちがどれだけ仏様のことをおろそかにしようが、教えに耳を傾けないでいようが、変わらずに私たちを導いてくれます。なぜそのようなことができるのかといえば、それは仏様は私たちにまったく見返りを求めないからです。ここが世間的な利他と仏教の説く利他の違いです。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』には、
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
と続いたあと、
ホメラレモセズ
クニモサレズ
とあります。この「ホメラレモセズ クニモサレズ」に利他の精神性の真髄があるように感じます。
それからもう一つ、「誰のために行なうか」です。先ほどの見返りにも重なりますが、私たちは利他という行為を相手のために行います。ですから、相手にはできる限り喜んで欲しいし、相手のためになって欲しいと思います。
一方仏教的な利他では、利他の行為は、仏様や仏様が説く教えのために行います。
大聖人様は多くの御書で「法華経のために」ということを仰せになられています。もちろん布教を行うのは衆生救済という目的のためです。しかし、それは誰のために、何のために行なうかといえば、それは大聖人様にとって「法華経のため」でありました。つまり、大聖人様と衆生の間には、法華経という教えが存在しているのです。
この考え方は、以前は世間にもありました。「お天道様が見ているからね」、というものです。良いことも悪いことも、お天道様が見ていてくれる、そういう第三者的な視点を常に私たちは持っていました。
他者へ施すという行為は大変崇高ではあるものの、そこには自分と他者という人間関係があり、その人間関係は時にすれ違いを生じます。ですから、昔の人は、自分と他者を直接的に結びつけるのではなく、自分と他者との間に、お天道様や神仏、教えなどを置いて、人間関係を潤滑にしていたのです。このことは、現代を生きる私たちに決定的に欠けていることです。人と人との関係性があまりにも直接的であるために、常に人の顔色をうかがい、本音を語れず、その結果、他者と自分の距離はどんどん遠ざかってしまっています。信仰心を失ってしまうということがこういう所にも影響を及ぼしてしまうのです。
ここまで世間の利他と仏教的な利他を比較してきました。私も利他という思想は今後世の中に絶対に欠かせないものであると思います。コロナ禍を通して私たちはソーシャルディスタンスなるものを受け入れ、一見人間関係はどんどん希薄になるかのように思われました。ところが、いったん「ステイホーム」の生活が始まると、私たちはどれだけ多くの人々に支えられて生きているのかということを痛感させられているのです。そんな当たり前のことがわからなくなってしまうほど自分勝手な利己主義が蔓延ってしまった現代であるからこそ、利他の精神は必ず必要です。
一方で先に挙げてきたように利他には課題が多くあります。「りえき」を最大化するために利他主義まで利用する社会システム、直接的すぎる人間関係に窮屈さを感じてしまう世間のあり方。こういった課題に対し仏教的な利他の精神は何かしらの答えを与えてくれると思います。損得感情に左右されすぎない社会、仏様を信じることで互いに思いやることができる世間のあり方などです。
皆様は今のコロナ禍を通してどんなことを感じておられますか? (合掌)
現在、寺院参詣が叶わない状況や、
法話ができない環境となっておりますので、
ここに今までに行った法話のダイジェストを掲載します。
(平成26年 盂蘭盆会法要法話)
基本的に仏教というのは、現実に向かい合うという姿勢が必要でして、
例えば、
「世の中には四苦八苦というものが現実に存在するから、
目を背けず、受け入れることが大切だ」
という立場を取るわけです。
世の中苦しみにあふれているとは誰も思いたくないですし、
そんなことは現実であっても欲しくはありません。
とはいえ、避けたい思いはありますが、やはり現実からは避けて通れません。
だけれども、何にもなくて現実に向かい合うことはつらいし苦しいです。
ですから、支えとなるものが必要で、仏様の慈悲の心を感じつつ、
慈悲を支えとして、現実に向かい合っていくことが大切です。
ではどうしたら仏様の慈悲の心を感じることができるのでしょうか?
前置きが長くなりました。その疑問が今日のお話です。
最近は、病気にならないための体づくりということが随分言われるようになりました。
身体にやさしい、自然にやさしいというような生活スタイルというのが流行っています。
それで病気にならないための体づくりっていうものや生活スタイル、
つまりは「予防」ということが大きく注目されています。
病気になったら治療をします。
治療も大事。
でも、できるならそもそも病気になりたくない。
だから「予防」に励むということです。
皆様の中にも食事に気をつけたり、毎日ウォーキングをされている方も
おられるのではないでしょうか?
さて、最近の巷で言われる信心というものがどういうものかというと、
どちらかというと病気で言えば「治療」の役割を果たしています。
苦しい時があったときに拝むもの、
つらいことにぶち当たった時にわらをもつかむ思いで手を合わせる、
このようなイメージで世間では捉えられているのではないでしょうか。
確かに、信心というのは、そういう治療的な役割は持っているんですが、
私は、先ほど述べました「予防」という側面を大事にすることが
信心としての本来の力を最大限に発揮することになるのではないか考えています。
生きていますといろいろなことがあります。
上り坂、下り坂、まさか。
ときにつまずくこともあるし、転んでしまうこともあります。
そうしたときに、人は、どう立ち上がるかばかりを考えます。
本当は、山あり谷ありの人生、杖(支えとなる教え=信心)とともに
道を進めば転ぶことは少なくなるでしょうし、
もし転んだとしても大きな怪我もないでしょう。
そんなことはない。人生、わからないことだらけだ。
確かにそうです。
なぜならそもそも自分自身が良く物事を見えていないということがあるからです。
大聖人様は、
「虚空の遠きと、まつげの近きと人みる事なきなり。」
と仰せになられています。
夏目漱石はこんなことをいっています。
「自分で自分の鼻の高さがわからないと同じように、自己のなにものなのかはなかなか見当がつきにくい」
自分ってものがよくわからないから、
まわりで起きていることもわからないわけです。
人生、わからないことだらけだ。
だからこそ、予防としての信心が大事であると思うのです。
では、
「どうすれば仏様の慈悲を感じることができるのか?」
ということと
「予防」
が関係あるのかといいますと…
病気の予防といえば、健康な体作りです。
健康な体作りには、毎日の運動、毎日の食生活が大事。
つまり、日々の積み重ねが物を言います。
「予防していても病気になりますよ」
もちろんそうです。ですが、病気の時こそ、日々の生活があらわれます。
乱暴な生活をしていたら、病気も重くなる。
しっかりとした生活をしていれば、予防を心がけていれば、
病気も軽く受けることができる。
信心も同じで、毎日の積み重ねが大事です。
予防するためには毎日の積み重ねです。
「信心していたら、困難はなくなるんですか?」
そんなことはありません。困難はあるでしょう。
でも、乱暴な生き方をしていたら、困難もひどくなる。
信心とともに日々を積み重ねていれば、困難も乗り越えることができるでしょう。
当宗では、毎日朝晩勤行をします。積み重ねです。
勤行をするというのは、「有難い」と感じることでもあります。
何を有難いと感じるか?
「仏様の慈悲」です。
毎日、
「仏様ありがとうございます」
「生かしていただいてありがとうございます」
と感じることです。
つまり、
予防=日々の積み重ね
日々の積み重ね=仏様の慈悲を感じることができるようになる
ということです。
困ったときに慌てふためいて、急いで仏様の慈悲を探しても、
なかなか見つかりません。
仏様の慈悲を感じる日々を積み重ねているからこそ、
困難を乗り越えていくこともできるのです。
「信心のこころ全ければ平等大恵の智水乾く事なし。」
(人も信心の心がととのっていれば、
仏の平等大恵の教えはは常に満ちていて乾くことはないのです)
と大聖人様は仰せです。
今の時代は、どうも心に目を向けようとしません。
体の健康ばかりをいいます。
何故か。
心というのは簡単ではないからです。
そして、心に向かい合わない社会だから、
言い知れぬ不安感は拭い去れないですし、
どうにも生きづらい世の中になってしまうと思うのです。
心は簡単ではありません。
だからこそ、日々丁寧に向き合って下さい。
「めんどくさい」だなんて思わないで、もっと自分や家族の心を大切にしましょう。
以上、本日の法話をこれまでと致します。
ご清聴誠にありがとうございました。
(合掌)
最近のご意見