「利他」(法眼寺瓦版 ひとこと法話より)

 《ひとこと法話》

 利他(りた)

 最近、巷で「利他」ということが見直されているようです。著名な経済学者も、
 「コロナ禍を通して、利己主義になりすぎた世界が「他者のために生きること」に立ち返らなければならない」
と声を上げています。特に若い世代では利他に強い意識があるようで、コロナ関連で寄附行為を行った年代を調べると、若い世代ほどその割合が高くなります。この意識は政治的なことに留まらず、ビジネスの間でも注目されています。以前より京セラの稲盛和夫氏がビジネスと利他を経営哲学として語っておられますが、若い世代でも利益追求型から循環型の経営手法を実践するなど様々な動きが見られるそうです。(「「利他」とは何か」集英社新書)

 一方で利他に関する課題も指摘されています。一つには、今世間で言われるところの利他とは「合理的利他主義」「効果的利他主義」だという点です。最も合理的に、また最も効果的に他者に施すことが自己の利益にもなるという考えです。一見すると良い考えのようにも思いますが、経済的な見返りや数の最大化が見込めない対象は切り捨てられてしまうという問題を抱えています。
 それから、他者に施すにしても、「何を施せば良いのかわからない、かえって迷惑になってしまうのではないか」という、利他がおしつけになってしまう懸念です。たとえば、電車で席を譲り合う場面です。好意で席を譲ったつもりが、相手が断り、断るどころか辛辣なことを言われてしまったという話を聞きます。その他にも社会的弱者に対して、支援をする側と、支援を受ける側のすれ違いは多く存在します。
 これらの利他の良い面悪い面を見るにつけ、もう一度「利他」について考えなければならないという思いを強くしました。

 まず、利他とはどういう思想なのかおさらいします。
 世間一般で用いられる「利他」とはフランスの社会学者によって造られた考え方です。自分の利益よりも他者の利益を追求する思想です。この思想が日本に輸入され翻訳される際に、「利他」という仏教用語が当てられました。ですから、厳密に言えば世間で言うところの「利他」と仏教の教えに基づく「利他」は意味が異なります。
 仏教で言うところの「利他」は「他者を利益することで、自利に対する語。自分の功徳や利益を他に施して救うこと。」という意味です。
 では、世間の「利他」とどこが違うのかと言えば、それは大きく二つの観点があると考えられます。
 一つは、「利益」に関して。もう一つは、「誰のために行なうか」に関してです。

 利益は、一般的には「りえき」と読みます。この場合、意味としては「自分の得になること。儲け。」などを意味しますので、どこまでいっても損得ということが関係します。
 一方で、仏教では利益のことを「りやく」と読みます。意味としては、「神仏や教えからの力によって授けられる功徳のこと。」です。つまり、そこに自らの損得感情はありません。損得がありませんから、自分に対しての見返りなども一切求めないのです。
 「四無量心」という教えがあります。仏様が持つ四つのはかり知れない利他の心のことです。その四つは、
 慈無量心…衆生に楽を与えること
 悲無量心…衆生の苦を除くこと
 喜無量心…先の二つを喜んで行うこと
 捨無量心…見返りを求めないこと
です。何より注目すべき事は、四番目の捨無量心です。私たちは他人に何かを施すとき、どこかに見返りを求めてしまいます。ですから、相手の反応によって自分の行為を評価してしまいます。先の例でいえば、席を譲るという立派な行為をしたにも関わらず、相手の辛辣な態度に、自分の行為まで否定された気持ちになってしまうのです。ところが仏様は違います。私たちがどれだけ仏様のことをおろそかにしようが、教えに耳を傾けないでいようが、変わらずに私たちを導いてくれます。なぜそのようなことができるのかといえば、それは仏様は私たちにまったく見返りを求めないからです。ここが世間的な利他と仏教の説く利他の違いです。
  宮沢賢治の『雨ニモマケズ』には、
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
と続いたあと、
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
とあります。この「ホメラレモセズ クニモサレズ」に利他の精神性の真髄があるように感じます。

 それからもう一つ、「誰のために行なうか」です。先ほどの見返りにも重なりますが、私たちは利他という行為を相手のために行います。ですから、相手にはできる限り喜んで欲しいし、相手のためになって欲しいと思います。
 一方仏教的な利他では、利他の行為は、仏様や仏様が説く教えのために行います。
 大聖人様は多くの御書で「法華経のために」ということを仰せになられています。もちろん布教を行うのは衆生救済という目的のためです。しかし、それは誰のために、何のために行なうかといえば、それは大聖人様にとって「法華経のため」でありました。つまり、大聖人様と衆生の間には、法華経という教えが存在しているのです。
 この考え方は、以前は世間にもありました。「お天道様が見ているからね」、というものです。良いことも悪いことも、お天道様が見ていてくれる、そういう第三者的な視点を常に私たちは持っていました。
 他者へ施すという行為は大変崇高ではあるものの、そこには自分と他者という人間関係があり、その人間関係は時にすれ違いを生じます。ですから、昔の人は、自分と他者を直接的に結びつけるのではなく、自分と他者との間に、お天道様や神仏、教えなどを置いて、人間関係を潤滑にしていたのです。このことは、現代を生きる私たちに決定的に欠けていることです。人と人との関係性があまりにも直接的であるために、常に人の顔色をうかがい、本音を語れず、その結果、他者と自分の距離はどんどん遠ざかってしまっています。信仰心を失ってしまうということがこういう所にも影響を及ぼしてしまうのです。

 ここまで世間の利他と仏教的な利他を比較してきました。私も利他という思想は今後世の中に絶対に欠かせないものであると思います。コロナ禍を通して私たちはソーシャルディスタンスなるものを受け入れ、一見人間関係はどんどん希薄になるかのように思われました。ところが、いったん「ステイホーム」の生活が始まると、私たちはどれだけ多くの人々に支えられて生きているのかということを痛感させられているのです。そんな当たり前のことがわからなくなってしまうほど自分勝手な利己主義が蔓延ってしまった現代であるからこそ、利他の精神は必ず必要です。

一方で先に挙げてきたように利他には課題が多くあります。「りえき」を最大化するために利他主義まで利用する社会システム、直接的すぎる人間関係に窮屈さを感じてしまう世間のあり方。こういった課題に対し仏教的な利他の精神は何かしらの答えを与えてくれると思います。損得感情に左右されすぎない社会、仏様を信じることで互いに思いやることができる世間のあり方などです。
 皆様は今のコロナ禍を通してどんなことを感じておられますか?        (合掌)

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