本日は御経日を奉修しました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
また本日は大行尊霊の祥月命日にもあたりますので、謹んで御回向を申し上げた次第です。
御参詣を頂きまして誠にありがとうございました。
法話では、兄弟抄の続きについてお話しをしました。
伯夷と叔斉の故事が示される部分を中心にお話しをしました。
賢き兄弟が、たった一言で身を亡ぼす。
口は災いの元。まさにそれをあらわした故事です。
言葉は使い方によっては、人も傷つけ、自分の身も亡ぼします。
使って覚えていく部分もあるのが言葉がコミュニケーションの道具である証かもしれませんが、それにしても言葉は危ういものだと思います。
特に今はSNSなどで、まだ言葉のルールが出来ていない状態です。
傷つくような言葉を見かけたときは、触れずに距離を取ることも大事ではないかと思います。
少しくらいSNSから離れたって、人生どうにかなるわけではありませんから。
本日は御経日を奉修しました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向をねんごろに申し上げました。
法話では大井荘司入道御書についてお話しをしました。
竜門の滝の故事が引かれる御書です。
多くの魚は竜にはなれない。
成仏も同じである。
ちょっと仏様の教えをかじったくらいで成仏できるわけではない。
思い切りなさい、思い切って法華経行じなさい、とご教示になられます。
また、魚は竜にはなることが難しいが、竜になれないと仰っているわけではないということも大切です。
難しいが成仏できないわけではない。
人生の暗いときに、その暗い道は永遠と続くようでも、必ず光はさす。光のあるところに辿り着くことができる。
そう信じることの大切さもこの御書でご教示ではないかと思います。
本日は月例の御経日並びに節分会を奉修いたしました。
足元の悪い中、ご参詣を賜り誠にありがとうございました。
謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げるとともに、節分会にてご参詣の皆様の信心倍増、ご健勝ご多幸をお祈り申し上げました。
今年は節分が2月2日でした。
数年前に2月2日であったことがありましたが、毎年2月3日だと思っていました。
調べてみると、今後は結構2月2日のことがあるようです。
公転と暦の周期のずれによるものらしいですが、何度読んでもなぜそうなるかはわかりませんでした。。
まだまだ寒いですが少しずつ春の日差しも増えてきました。
もう少しの辛抱ですね。
皆様お身体大事に過ごしてください。
本日は、12月度の御経日を奉修しました。
朝は冷えましたが、御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
御参詣誠にありがとうございました。
法話では、南条殿御返事についてお話しをしました。
不妄語戒について説かれた御書です。
その中で普明王の故事(釈尊の本生譚)が示されます。
釈尊の本事因縁譚の一つに説かれる王。『大智度論』巻四などによると、普明王は園林に遊んだ時に班足王に捕らわれ、他の九九九人の王とともに首を斬られようとしたが、その時に激しく悲嘆した。班足王がその理由を問いただしたところ、普明王は「死は恐くないが、今朝国を去る時に一人の沙門に布施を約束したので、それを果たせずに不妄語戒を破ることが悲しいのだ」と答えた。これを聞いた班足王は感じるところがあり、七日間斬首を延期して王を帰国させた。普明王は国中の沙門に施行をおこない、位を太子に譲って、七日目に班足王のもとに赴いた。班足王はその正直さに打たれ、邪見を改めて正法に帰依し、普明王だけでなく他の九九九人の王をも釈放したという。
御書システム辞書より
一説には太宰治の「走れメロス」のもとになった話だと言われています。
このように嘘の無い世界は、今世にはなかなかないのであって、真実が説かれた法華経に縁ができたことは、誠に有難く、虚構に惑わされそうになったときは、お題目に立ち戻ることを心掛けていきましょう。
本日は御経日を奉修しました。
雨の中御参詣を賜り誠にありがとうございました。
参詣者の皆様と謹んで先祖諸精霊への御回向を申し上げました。
本日は法蓮抄の続きに関してお話しをしました。
鳥竜と遺竜の故事について示されています。
信心に誠実である人ほど、自分の祈りは一方的なものになってしまっていなかと思われることがあります。
それは一生懸命に祈ればこそのことでありますが、この法華経の教えは、生死を越えたつながりを示しますので、大聖人様は法蓮上人に対し、
「あなたが法華経をもって亡父を祈る功徳は、必ず亡父に届くのである。そして亡父はあなたが祈ってくれたことに感謝しをあなたのことを霊山浄土から合掌してくれるでしょう」
と仰せです。
大変に感動する御教示です。
ともすれば生きている人間だけの世界観でこの世は語られてしまいます。
しかし亡くなった人たちとも私たちは共に生きています。
そういう目に見えない存在と共に有ることを感じることができるということが、本当の豊かさ、真の幸せの一つと言えるのではないでしょうか。
本日は御経日を奉修しました。
朝から気温が高く、夏が戻ってきたかのような気候となりましたが、御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
御参詣を賜り誠に有難く思う次第です。
法話では「上野殿御消息」についてお話をしました。
四徳と四恩について説かれた御書です。
四徳にしても、四恩にしても、特別なことをしなさいと言うことではありません。
誠実に、自分の出来る限りのことをしていきなさいと御教示です。
知恩報恩ともいいますが、こういう言葉は順番も大事で、恩に報いるためには、まず恩を知ることが大切です。
ところが大人になると恩を教えてくれる環境が限りなく少なくなります。
ですから、寺院参詣や説法聴聞などによって恩を知る努力が必要です。
上野殿も大聖人様から恩について教えてもらっていました。
今の時代にも必要なことだと思います。
本日は御経日を奉修しました。
台風が過ぎ去り、雲一つ無い天気になりました。
お盆に引き続いて、深信の御参詣を賜り誠にありがとうございました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊へ御回向を申し上げました。
法話に先立ち、本日が防災の日にあたっているということで、防災に関してのご挨拶をいたしました。
いろいろと防災の準備が必要ですが、とにかく一人で準備をするのではなく、家族、親族、近しい人と行う事が大切ですとお話ししました。
離ればなれになった時に再会する場所、どうやって連絡するかをまずは話し合って頂ければと思います。
法話では、「尊霊御菩提御書」と「除病御書」についてお話ししました。
先月の御経日でお話しした「太田入道殿御返事」に引き続いての内容です。
病気をしたときに、私たちはその病気をどう捉えるかということについて改めて考えさせられる内容でした。
転重軽受していくということは、難を受けることそのものに意味があるように思います。
病気が治る、難を克服する…それでも私たちはまた苦難を受けます。
そういう人生の中で、過去現在未来の三世を意識して、転重軽受していくという難の受け止め方は、現代人の何でも出来ると思い込んでしまっている増上慢に対して、全く別の生き方を示してくれているように思います。
本日は御経日を奉修しました。
相変わらず朝から暑くなったのですが、深信の御参詣を賜り誠にありがとうございました。
謹んで先祖諸精霊の御回向を申し上げました。
法話では、「太田入道殿御返事」についてお話しをしました。
太田入道が病気をされたことに対して励ましのお言葉を与えられた御書になります。
太田入道は曾谷教信、金原法橋と親類であるとも言われ、大変に法門にも精通した方であったようです。
また大変に信仰に熱心であり、大聖人様を初期から支えられた檀越でした。
大聖人様の一歳年上だとも言われています。
その太田入道に与えられたお手紙ですので、内容的には少し難しい部分があります。
また信仰に熱心である太田入道であるからこそ響くお言葉が多くありました。
病を得ることで過去の悪業を転じていくことができるのであるから、病に負けず、信心に励みなさいとする御教示は、深い信心の境地に立つからこそ、享受できるところではないかと思います。
拝読する度に気付きがある御書です。
本日は、御経日を奉修しました。
朝から強い雨が降る中、深信の御参詣を賜り本当にありがとうございました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊への追善供養を申し上げました。
法話では高橋入道殿御返事についてお話しをしました。
建治元年頃の大聖人様の御法門が簡潔にまとまった御書であり、弟子檀越たちへの心配りが詰まった御書ですので、是非全文を拝読頂きたいと思います。
高橋六郎入道は、この建治元年末頃に亡くなったとされます。
病に蝕まれる体で、身延の山中にいらっしゃる大聖人様のもとを訪れたことがこのお手紙の中で言及されています。
そして、高橋六郎入道が参詣されたことを大聖人様は大変に有難く思われたことも示されています。
私たちは、そこに行くことで、他者を励ますことができるということを改めて考えさせられる内容です。
コロナの時代にあって、直接会わずともつながる手段は増えたわけですが、それでも、行くことでこそできるつながりもあるのではないかと思います。
本日は、御経日を奉修しました。
とても気持ちの良い天候の中、6月度の追善回向を申し上げることができました。
皆様には深信の御参詣を賜り、本当にありがとうございました。
本日は、大学三郎殿御書についてお話しをしました。
大学三郎は一説には比企能本であるとされます。
幕府の権力争いに巻き込まれる中、大聖人様に縁をしました。
大変な能筆とされ、幕府中枢に近いところにありながら、題目の信仰に励まれていました。
本抄はとても難解な御書になりますが、後半部分では戒律について示されています。
仏教ではたくさんの戒律があるけれども、末法のときにあっては、持戒は法華経受持であることが示されます。
本来、戒は、守っているからといって自慢をするようなものでもありません。
また、時にあわない戒律はこれも意味をなしません。
たとえるなら、現代にあって江戸時代の法律を守っていると喧伝するようなものです。
今私たちが、日々の生活の中で、守ることができる戒を大聖人様はお示しになってくれたのですから、私たちは言い訳せずに、この戒を持っていかなければなりません。
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