人工知能は、膨大な情報を学ぶことで、実に多くのことをこなせるようになっています。
近年では、膨大な情報をもとに予測を行い、まるで人間の知能のようにふるまう。
さらには、創造性さえ示すことができるという見解もあります。
しかし、それを素直に「知能」と呼んでよいものか…という議論もあります。
仏教では、法身・報身・応身という三つの身があります。
法身は真理そのものであり、もしこれを「知識」とみなすなら、
応身はその知識を実際に現す「体」、
そして報身は、知識と体をもって生きた働きとする「智恵」であると言えるでしょう。
つまり、仏教では「知識」と「智恵」は異なるものと考えます。
では、「知能」とは何でしょうか。
それは膨大な知識による予測のことなのか。
それとも、知識に情念や身体性を重ねて、初めて働きとして現れる智恵のことなのか。
「そんなのは定義の問題でしょう」と片づけてしまうには、
あまりにも深い問いのように感じます。
今日で秋の彼岸の期間も終わりとなりました。
すっかり秋らしく…とはならず、今日はうっとうしい暑さとなりました。
本日、ご参詣された方は、なかなか彼岸の期間も休みが取れず、ようやく時間が取れてご参詣されました。
「やっと参詣できました」
とホッとしたご様子でした。
お彼岸は春といい、秋といい、農耕も少し落ち着く時期で、本来であれば、少しゆっくりできる期間です。
でも現代社会はそれを許してはくれません。
休むことの大事さが今になって言われていますが、上手に休む、横になるという意味以上の身心の休みということが現代人はもっと必要だと思います。
いずれにしても、暑い季節がおわり、彼岸がきてくれて本当に良かったと思います。
ご参詣の皆様には本当にありがとうございました。
本日は御経日を奉修しました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
今日は朝から冷え込みが厳しかったですが、ご参詣頂き本当にありがとうございました。
法話では、「下方他方旧住菩薩事」についてお話しをしました。
御消息文の御書ではありませんが、大聖人様が富木常忍に法門を教えるテキストとして使われたと推測される御書です。
師弟が相寄って行学に励む様子がよくわかる内容です。
信仰といえば、世間では願いが叶った叶わないというようなものとして扱われますが、本当の信仰の喜びは「学ぶ」というところにあるのではないかと思います。
大聖人様と富木常忍の交流にはとてもあたたかいものを感じます。
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寒暖差の激しい日々です。くれぐれも大事にお過ごしください。
吉川英治さんの新・平家物語は読んだことがありましたが、今回NHKで「人形歴史スペクタクル 平家物語」が再放送されていました。
1993年から95年まで放送されていたものだそうで、その時には見ていなかったのですが、30年経った今見ても、非常によくできた作品でした。
原作もそうですが、かなり研究も進んでいるので、史実とは言えない部分も多くあります。
しかし、物語でなければ語れない部分もあって、それこそ平家物語に漂う無常観がよく現れていたと思います。
平家の勃興衰退が描かれるのですが、むしろ源氏の衰退がこの物語の後にあることを思うと、我々が生きている社会はいつでも諸行無常だということを考えさせられます。
特に平安時代末期から鎌倉時代はある意味残酷な時代なので、逆に人形劇だからこそ表現できるものもあったように感じます。
この物語から数十年後に大聖人様はご誕生遊ばされるのですが、親殺し、子殺し、兄弟での争い、裏切り、強欲、儚さ、空しさが溢れる社会で、それでも人としてどう生きるかを求められた大聖人様とは、やはり希有なご存在であったのだと改めて思います。
今日お参りされた女性は、80歳を越えています。
「年取ったわ、歩けんわ」
といいながら、しゃんしゃんと歩いてこられます。
つい最近までお仕事もしていて、お仕事を辞めてからは、
「このままじゃ、ボケるけん、とにかく新しいことを始めようと思ってる」
と仰っていました。
体力的な衰えはあっても、気持ちを衰えさせないところを見習わなければ思いました。
法務の都合で、明日仏教説話の動画をアップしたいと思っています。
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いかりについての動画になりますが、いかりは、
瞋り
怒り
と書いたり
忿り
と書いたりするものがあります。
今回参考にした本では
忿り
でした。
忿はどういう意味なのでしょうか。
憤るが憤と読み、こちらの音と意味に近いともありました。
心が分かれる。確かにいかりは、心を分けてしまいます。

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