コロナ禍を通して 春季彼岸会法要法話
本年の春季彼岸会法要の法話をここに掲載いたします。
コロナ禍を通して
コロナ禍が始まって約3年でしょうか。気付けば大変な月日が過ぎました。その間、私たちの生活スタイルも随分変化しました。一応、コロナ禍も終息の方向に向かっているとのことですが、一度変化したものをまた戻していくということは大変なことだと感じています。こうやってコロナ禍も終息していく時に当たりまして、もう一度コロナ禍で感じたこと、学んだことをここで振り返っておかなければならないという気持ちになりまして、またそのような中で大聖人様の御書を多く引いて、私たちの励みとしてきましたので、今日はそのことについてお話しをさせていただきたいと思っております。
このコロナ禍は、中国で2019年の12月初旬頃から始まったと言われています。日本で報道されるようになったのは、2019年の年末から2020年の年明け頃ではなかったかと思います。その2月末で小中高の学校が一斉休校になりました。そして、4月には緊急事態宣言が出ました。あの時は緊急事態宣言が出たということでとにかく驚きと不安といろいろなものが入り交じりながら、日々を過ごしていたように思います。
そこから結局ずるずると三年の日々が過ぎたように思います。当初はとにかく未知なるものが相手ですから、目には見えないし、どうしたら良いのかという感じでした。またご不幸も続きましたから、やっぱり誰もが怖かったと思います。ところがすぐに皆さんうっすら気づき始めました。
「怖いのは病気では無い、人間だ」
ということですね。病気よりもよっぽど人間のやることの方が怖かったわけです。そもそも病気にかかるのは誰のせいでもありません。人間がどうこうして何とかなるものであれば、そもそもこんなに流行するわけないんです。もちろん病気にかからないように気を付けることは大事です。でも誰もが病気にかかることだってある。ところがあの人が病気になったと噂したり、悪口や嫌がらせをしたりする。それも半端じゃなかったですね。
そういう中で、皆さん暗い顔をされている方が多くおられたように感じました。そこで、大聖人様の御書から、次のようなお言葉をいただきました。
「つねにめるすがたにておわすべし。」『八幡宮造営事』
この言葉は大聖人様の檀越である池上兄弟が窮地に陥ったときに、
「あなたたちは何も悪いことはしていないのだから、毅然とした態度で、しかし、にこやかに日々を過ごしていなさい」
という御教示です。この御教示をもって考えれば、たしかに病気相手に、また人相手に怒ったり、不平を言ったりしても仕方ないんですね。そのようなことをしても意味も無く、そしてとても疲れてしまいます。ですから、気持ちだけでも明るくにこやかに過ごしていきたいということで、とても支えになったお言葉でした。
一方で寺院としても寺院行事などの活動や法事などをどうやって差配するべきか悩み考えることも多くございました。ただ考えてみれば、こういった難しい状況は今に始まったことではありませんでした。人間関係が希薄になり、宗教離れが叫ばれている状況は、もう何十年も続いています。ですから、気持ちを切り替えて、よし、ちょっといろいろなことをやり直してみようということで、新しく取り組むようなこともでてきました。そういう時に励みになり、また皆様にご紹介したのが、
「仏法を信じて今度生死をはなるる人の、すこし心のゆるなるをすすめむがために、疫病を仏のあたへ給ふ。はげます心なり、すすむる心なり。」『閻浮提中御書』
という御教示です。大聖人様御在世の時代も疫病がなんども流行していました。今の人たちと同じように人々は右往左往していました。現代のように医療も発達していませんから、ちょっとした風邪でも命を失うような時代です。それは右往左往しても仕方がないと思います。そういう状況にあって、この御教示のように、
「仏法を信じて今生に生死の苦しみを離れようとする人が、少し心がゆるんだので、それを正しい道に戻そうとして、仏が疫病を与えられたのであり、これは激励のため、勧誡のためである」
という視点、ものの見方や捉え方は、本当にすごいと思いました。
私たちはコロナ禍を通して制限有る生活をしなければならなくなりました。外食ができないとか旅行ができないとか、人との交流ができない、そういう状況になりました。それは大変なストレスで、病気にかからないまでも体調を崩してしまうような方が多くいらっしゃったようです。
でも、考えてみればいつでも外食できる、旅行ができる、人とも会えるというほうが本当は稀なことであったんではないでしょうか。いつも私は師匠から言われるわけですが、「お前達は毎日正月だ」とこういわれるわけです。師匠よりもっと上の世代の方は、戦前戦中戦後の苦しい時代を生きてこられています。そういう人たちのコロナ禍に対する受け止め方はまた違ったものがありました。
ある90歳になろうかという女性の方とお話しをしていたときのことです。「私は戦争でとにかく苦労しました。長生きしてきて、またこんな事態に遭遇するとは思ってもいなかった。あぁ長生きしてきて良かった。」私は「あれ?」と思いました。「もうこんな思いするなら長生きするんじゃ無かったと仰るかな」と、不謹慎ですけど、そう仰るかなと思ったんです。でも違いました。これも長生きしていたから経験できること。苦労だって生きているから経験できること。有り難いことなんですよと教えてくれたわけです。
私たちは考え方や捉え方次第で、生き方は随分と変わってきます。そういう経験を多く聞く中で次の御教示が身にしみました。
「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。」『四菩薩造立抄』
大聖人様は決して恵まれた環境にあったわけではありません。むしろ当時の人から見てもひどくつらい状況だったわけです。でも大聖人様はその状況を恨むこと無く、信心の観点から自分自身の人生を語ります。日蓮は俗世間では日本第一の貧しき者であるけれど、もし仏法の上で論じたならば世界第一の富める者であります。今の私たちの大きな励ましとなる御教示だと思います。コロナ禍を通して、皆様も自分たちにとって大切なものは何であるかを考えたことと思います。
きっとその中には、今日お詣り頂いたように、手を合わせることの大切さ、仏様を感じることの幸福感も含まれていることでしょう。そのような気付き、これは宝だと思いますが、その宝をコロナ禍が終ったら、すっかり忘れてしまったではもったいないと思います。
コロナ禍は、もちろんこれからどうなるかわかりませんが、終息していったとしても、また同じようなことは起こるかも知れませんし、もっとつらいことや悲しいことがあるかもしれません。そのようなときでも、この数年で経験したことはきっと皆様の支えや教訓となってくれると思います。ぜひこれを機会にもう一度振り返って頂いて、皆様にとって大切なものは何であろうかを考え直す機会にしていただければと思う次第です。(合掌)



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