農家の方に教えてもらったことなのですが、
最近の雑草は伸び方が違う
だそうです。
どうも伸びるのがどんどん早くなってきているようなのです。
長年農家をしてきて、これほどに雑草が伸びるのが早いということは無かったようです。
品種が変わってきたのか、それともどんどん強くなる日光の影響なのか。。
必然的に草刈りをしなければいけない回数が増えてきていて、大変だそうです。
子どもが供養を続けてくれるだろうか。
こういう思いは皆様あると思います。
今日お話していた中でも、同じ話題になりました。
子どもに迷惑かけたくたいけど、でも供養はしてもらいたいなぁ。
そういう言葉をよく聞きます。
確かに供養に関することは、なんだかよくわからなくで煩わしく感じるというのも、本音のところだと思います。
でも、供養することは大事なことだから、とも思うそうです。
この問題に関して、これが正解というものはありません。
するする!といっていた子どもが全くしなかったり、私はやらないよって言った人がちゃんと供養を続けたり、こちらが思ってもいなかった結果になることは、たくさんあります。
でも、一つ確かなことはあって、それは親が手を合わせるところを子どもが見ているかどうかということです。
子どもは良く親のことを見ているなと思います。
ですから、あまり先のことは心配しすぎないで、まずは真心を込めて毎日の供養を心がけることが大事ではないでしょうか。
境内地の整備をするときなどは軍手をしますが、最近は手を動かしやすい手袋も増えてきました。
気持ちよく、かつ安全に作業ができますが、しかし、手袋をつけるだけで、紐が結べなかったりします。
手袋をつけていなければ、紐を結ぶくらいは難なくできますが、手袋一つで随分と違います。
よく障がいのある方は健常者が〇〇をしている状態というようなことを聞きますが、手袋をしている状態がそれと同じなら本当に不便だと感じます。
当たり前にできていたことが出来なくなる、実感してみると本当に辛いことだと思います。
最近、何につけても感動が求められるようになったと感じます。
説法にも感動する話が求められるようで、何か涙を流すような話が好まれるということを聞きました。
確かに演出の一環として感動を入れ込むということがあるとは思いますが、それが説法に必要だろうかとも思います。
感動させることを目的にした話などを見たり聞いたりすると妙に冷めてしまうようなこともあります。
仏教は物事の真実の姿を求めるものですから、時には厳しく、ある意味虚しさを感じる場合もあります。
ただ、お話ししていると、こちらが意図せずとも
感動しました
という言葉をいただくことがあります。
それは熱量とかの類いによるものかもしれません。
感動させることが目的の説法よりも、結果的に感動できた説法でありたいなと思います。
ご信徒や一般の方から宗教の違いや特徴などを聞かれることは結構あるので、概論などはよく見るようにしています。
下記の本は、概論として触れるにはとても分かりやすいと思いました。
https://www.kadokawa.co.jp/product/321809000714/
あまり詳しく説明はありません。
むしろ詳しい説明を上手にはぶき、図などを使って、掴んでおきたい部分を明確にしてくれています。
概論ですから、一冊読めば良いというものではなくて、何冊か読んでもらうのが良いと思いますが、この本は手に取りやすいのではないかと思います。
読めなかった字です。
粧い
文章内では
粧ひ
で出てきたのですが、読みは
よそおい(よそほひ)
でした。
意味は、
身なりや外観を整えること、またはその姿を指します。また、美しく飾るという意味や、風情、準備するという意味
です。
化粧もこの字を使いますね。
古典では、年齢は…というニュアンスの使い方もあるようです。
今日は当地でも久しぶりの雨となりました。
梅雨が明けてからほとんど雨らしい雨は降っていなかったので、半月は雨を見ていませんでした。
気温も久しぶりに30度を切ったと思います。
雨の降りはじめは地面が熱くなっていたからでしょうか、とても蒸し暑くなりましたが、昼過ぎには蒸し暑さも落ち着いたように思います。
まさに恵みの雨ですね。
夕方に散歩をすると草木もすっかり元気を取り戻した感じです。
昨日はホームページのメンテナンスで更新が出来なかったのですが、一応できる限り毎日更新をしています。
他愛のないことばかりを書いているのですが、
毎日書くことがあるのですか?
と聞かれることがあります。
毎日書きたいことはあるのですが、文章にならないことの方が多くあって、下書きばかりが増えています。
今日はよく書けたと思っても、読み返してみると、言うべきことじゃなかったな…とか、何を言いたいのかわからないな…とか、そういうことが多くあって、ボツになることも一度や二度ではありません。
もうお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、今日も書いてみて、満足気分で読み返して、ボツにしました。
納得いく文章なんて書けた試しがありません。
本当に言葉は扱うのが難しいものだと思います。
宗教の定義は難しいということはここでも何度も紹介してきましたが、そもそも何かを定義するということ自体がとても難しいのだと思います。
あなたにとって〇〇は何ですか?
というようなことを聞くと、答えは十人十色であるように、言葉で何かをくくるということが無理が生じやすいのではないでしょうか。
分かるは分けるとこだといいますが、分かるというのは分かれていたものが結びつくことだったりもしますから、定義できたからと言って、その対象がわかるわけではないということを注意しておく必要があるかと思います。
でも、こうなると何で定義する必要があるのかということになってしまうので、やっぱり定義があると全体像を掴みやすいこともあり…、
結局、堂々巡りになってしまいます。
NHKの番組で、アジア圏の大学のトップの方々が集まるシンポジウムのようなものをチラッと見ました。
チラッと見ただけで語るものでもないのですが、各大学の人工知能に対する取り組みが紹介されていました。
その中で、東大の総長が、
人工知能の扱う領域は10の10乗に及ぶ。物理学の専門家は宇宙の星は10の11乗あり、つまり人工知能はそのレベルまで近づいている。人工知能は宇宙論の範疇だ。
というようなことを仰っていました。
一般の人が思う以上に広範なものになっているのが今の人工知能で、学問の垣根など、とうに超えている。
であるなら、宗教は人工知能に対してどんなアプローチをするでしょうか?
宗教側が人工知能は人間を超えるか超えないかで論じている場合ではないのかもしれません。
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