三人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、本当にそうだと感じることが多々あります。
自分では気付けないものの見方などもあって、たとえば古文書などを見るにしても、
少し紙を斜めにして読んでみるとよいね
とアドバイスをもらったりすると、それで見え方が全然変わってきたりするのです。
また、考え方なども、自分で考えている内では、どうも凝り固まって自由な発想にならない場合があります、人の意見に耳を傾けてはじめて気付く考え方などもあります。
大聖人様の時代も、僧俗が机を並べて法門の研鑽に励んでいる様子を御書から伺うことができます。
鎌倉時代はひどい時代ですが、大聖人様と机を囲むことができた僧俗は本当に幸せであったろうと思います。
本日は御報恩御講を奉修しました。
皆様には御参詣をいただき誠にありがとうございました。
共に宗祖日蓮大聖人への御報恩を申し上げました。
また、本日は御講に引き続いて法華講総会も開催しました。
とてもよい発表を聞くこともできましたし、参加者でテーマを決めてディスカッションもしましたが、いろいろと意見が交わされてとても勉強になりました。
詳しい内容は寺報にて掲載します。
皆様、お疲れ様でした。
とても楽しい総会でした。
最近、AIによってなくなる仕事があるという話が聞こえてきますが、最近ある方とお話ししていて、伝統技術の後継者がいないとうことで、仕事がなくなってきているということを聞きました。
和紙や筆などは需要はあるけど、日常なくても困らないものだから、需要が少なく、それがためにどうしても仕事をたもつことができないのだそうです。
さらにコロナ禍もあって輸入できていた部材なども手に入らなくなったことも影響があるとのことでした。
せっかくの伝統の技術が失われていくことがとても勿体なく感じます。
とはいえ、保護するとしても、限界があるでしょうし。
どんな技術も未来永劫続くものではありませんが、生活の中でもう少し伝統的なものに対する関心を持つことで、何か力になれることもあるのではないかと思います。
これも読みにくい字ですが、「し、しゃ、あつかい」などと読むそうです。
口が多いで「おしゃべり」ではありません。
「一言多い」でもありません。
意味は口を大きく開ける様子であったり、おおらかな様を言ったりするそうです。
読みにくい字は本当に多くあります。
読めない字が出てきたら、漢和辞典でも調べますが、最近はスマートフォンなどで手書き文字入力なども便利です。
下記のサイトなどが参考になると思います。
釈尊の御一生について話して行こうかとも思い、いろいろ資料を見比べたりしているのですが、一生を語る上で、史実としての釈尊、伝承としての釈尊、信仰としての釈尊がいらっしゃることに気づきます。
そして、三様の釈尊は三つに分けて捉えることができるかといえば、それは難しいように思うのです。
厳密なたてわけはできないと言えるでしょうか。
その上で、特に伝承としての釈尊をどのように受け止めていくか、伝承は何を言わんとしているのかを考えることが釈尊の御一生を拝していく醍醐味と思うのです。
衤を漢和辞典を調べていたら、同じ五画のところに礻がありました。
なんでだろう…、衤と礻は一画違うのに…、と結構な時間悩みました。
礻は示偏として項目が設けられていたんですね。
わかったときは感動しましたが、冷静になるとこんなことも分からないのかと急に恥ずかしくなりました。

昨年、ずっと念願だったドウダンツツジが手に入り植えたのですが、猛暑で枯れたようになっていました。
すごく悲しかったので、なかなか諦めきれずに、そのまま植えたままにしていたのですが、今日気付いたら新しい葉が出ていました。
枯れていなかったんだ!
とても嬉しい出来事でした。
昨日は、御経日を奉修しました。
とても気持ちの良い天候の中、彼岸会に引き続き、各家先祖諸精霊の追善回向を謹んで申し上げさせて頂きました。
御参詣をいただき誠にありがとうございました。
法話では、先月に引き続き、南部六郎三郎殿御返事についてお話しをしました。
南部六郎三郎殿は武家であり、殺生を生業とします。
時に命を奪わなければならないとうことは、悪人でありました。
その南部六郎三郎殿が法華経の題目に巡り会い、当位即妙不改本位の教えによって成仏が叶うと分かったときに喜びはどれほどのものであったでしょうか。
私たちは急に仏や菩薩のようにはなれない、仏の姿になることが成仏であるというなら、それは限りなく難しいことです。
一方大聖人様が法華経をもって説く教えは、お題目を受持することで位を改めず成仏ができるという教えです。
今の時代に生きる人が、我こそは善人であると言い張ることができるでしょうか。
少なくとも自分は善人であるとは思えません。
たくさんの命の上に自分は生きながらえさえていただいています。
また心に貪・瞋・痴の三毒はしっかり根付いてしまっています。
考えれば、自分はまったく愚悪の凡夫です。
そんな人間でも題目の受持によて成仏ができると説いて下さるこの教えは、今を生きる私たちにとっても確かな救いになると確信するのです。
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