雑記

差別をなくすためには、他者を理解することが必要だというのはもっともなことで、そのためには、自分たちの枠組みを外へと広げていくことが大事であるというようなことが言われます。

先日、テレビで紹介されていたリチャード・ローティもそのようなことを言っていたようです。

そうやって他者を理解することが社会の中で違いを受け入れつつ平等を実現していく第一歩であると思います。

ところでこの枠を広げていくというアプローチと宗祖の他者へのアプローチは少し方向が違うと考えています。

宗祖の場合は、枠の外の他者を自分の中に引き込む、自分の中に観るというような方向ではないかと思うのです。

転重軽受や逆縁の思想などに触れると、特に曾谷入道殿許御書に仰せのように末法総逆縁という法門には、「題目を信仰する自分たち」という枠すら消し去り、枠の外の他者を内包していくようなあり方ではないかと。

現代社会で同じようなアプローチは可能なのでしょうか。

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