雑記

お彼岸の準備と法華経のはなしの動画を準備しているのですが、法華経を拝読していくとやっぱり受持の重要性に気付きます。

次回話していく五種法師にしても受持は第一番目で、他の四つからすると受持は正行にあたります。

以前の動画でも受持は英訳するとrememberであるといいましたが、受け持ち忘れない、このことが信心をしていく上でどれだけ大事なことかがこの法華経では繰り返し説かれていくわけです。

受持は理解を越えたところにある境地なので、信心をしていない人からするとなかなかわかりにくいあり方だと思います。

またまとめて書きたいとも思っているのですが、よくいろいろな宗教を学んで、それで一番良いと思うものをやっていきたいという方がいらっしゃいます。

大変な心がけであり、到底自分ではできないことだなと感じる一方、やっぱりそういう考え方では受持ではないわけです。

そのことを先ほどのような「いろいろなことを学んでから…」と言う人も何となく分かっていて、いろいろなものを見て選んでいる内はそれは学問の範疇で、信心とはいえないということを思っているようです。

では、その境界線がどこにあるのかというと、それが受持だと思います。

学問していくことで知識は増え、理解は深まっていく、でもそれだけではいけない。

そうやって深めていったものが、時に自分の人生の支えとなっている、指針となっているそういったことに気付くとき、はじめて信心としてのあり方が見えてくると思います。

そして、そのあり方が見えてきたときに、やはり受持していくこと、受け持ち忘れないことがいかに大切であるかに気付くのです。

法華経は理解に傾きすぎることに警鐘を鳴らします。

それは、理解を語るだけでなかなか受持へと向っていかない人が本当に多くいうるからではないでしょうか。

そして、そういった人が持つ性質は、いつの時代も変わらないものなのであるのかもしれません。

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