昨日に引き続き読みにくい字です。
こちらは辞書で調べればすぐに読みが出てきます。
これは「さえずる」と読みます。
インターネット上の辞書では、
1 小鳥がしきりに鳴く。「カナリアの―・る声」《季 春》「―・るも帰りがけなる小鳥かな/浪化」
2 口数多く早口でしゃべるのを軽蔑していう。ぺちゃくちゃしゃべる。「よく―・る女の子だ」
3 地方の人や外国人などが耳慣れない言葉でしゃべる。
とあって、小鳥が鳴くという言葉のイメージしかありませんでしたが、いろいろな用法があるようです。
もう少し調べて見ると、このようなことわざがありました。
勧学院の雀は蒙求を囀る
勧学院は平安時代の最高教育機関の別院のことです。
蒙求は初等教育の教科書のようなものです。
勧学院に住んでいる雀は、知らずに蒙求を囀るようになるということですね。
門前の小僧習わぬ経を読むと同じような意味合いのことわざです。
現代人は意味を知ることが先行してしまいます。
これが良くないというわけではありませんが、意味を知ることにこだわりすぎると学問の幅が狭まってしまいます。
大人も子どもももっと素読(意味は分からなくても繰り返し口に唱えることで身に入れる学習法)に取り組んでみても良いのではないかと感じています。
何か物事を説明するときにたとえ話をすると伝わりやすいことがあります。
でもそのたとえ話が上手でないと相手を逆に混乱させてしまうこともあります。
たとえ話が上手な人の話を聞くと、とても分かりやすいのでいつもうらやましく思いますが、
自分ではなかなかできません。
法華経は譬喩の教えともいわれますが、特に前半迹門では多く譬喩が説かれます。
あまりにも譬喩が多いですから、一読すると大した教えではないと思う人が昔から結構いたそうです。
(私にはどんな教えも難しく感じますが…)
しかし、譬喩の意味を悟ると法華経の深遠な教えに気づき、法華経がいかに偉大かであるかを
身にしみて思うといいます。
譬喩は、上手に譬えることと、またその譬喩の真意を上手に受け止める、
この両方が大切だと思います。
仏様の譬喩が上手か下手かを論じるのはあまりにも愚かですから、
受け止める側が譬喩の真意を探る努力は欠かせません。
その姿勢にたって譬喩を拝すると、どんどんと気付くことが見えてきます。
現代は短い言葉で簡潔に伝えることが優先されます。
それゆえ、一見伝わりにくく、学びの必要なたとえ話はあまり必要とされないのかもしれません。
しかし、もう少し意味を考え、長い時間思いを巡らすようなコミュニケーションもあってよいのではないかと思います。
今日は久しぶりに雨となりました。
恵みの雨となって、早速新緑も活き活きとしているようです。
もちろん雑草も活き活きです。
雨と言えば、「雨に唄えば」ではなくて、
私たちには三草二木の譬です。
同じ雨でも、草木それぞれによって、雨から得た果報は異なるという譬喩です。
雨は一つ。
果報はそれぞれ。
教えは一つ。
でも受け止め方はそれぞれ。
仏様が私たち凡夫にたいして教えを説くにあたって、
私たちがいろいろなものだから、受け止め方もそれぞれになってしまう。
「それでもいいよ」
と言って下さっているのか、
「それではだめなんだけどね…」
と言って下さっているのか。
なるべくなら、自分の心を素直にして、
雨をそのままに身に受けたいと願うばかりです。

冷え込みが厳しい中、新年を迎えました。

例年とは違う正月となりましたが、
それでも正月は気持ちが違います。
本年も厳しい日々が続くようですが、
皆様なにとぞよろしくお願い申し上げます。
今日は、寺院清掃でした。
工事中の最中でしたが、出来る範囲を見つけて、
お寺を掃除してくださいました。
お寺は僧侶だけでは守れません。
御信徒のこういった心がけによってお寺は守られていくのだと
思います。
ずいぶん前に他宗のお寺の檀家さんから電話がありました。
よくある自分のお寺の不満を述べられたものでした。
確かにそのお寺さんの様子には檀家さんが何かをいいたくなるようなものでしたが、
聞いてこちらも身を引き締めないといけないなと思いました。
そう思いながら話を聞いていたのですが、
その檀家さんが、
「お寺が汚れているんです。玄関もごちゃごちゃしているし。
住職は忙しいみたいですけど…。」
と仰いました。
そのときはさすがに、
「もし汚れているのなら、あなたが行って掃除を手伝われたらどうですか?」
と伝えました。
無論、仏法の話もしましたが、
ただ不平不満を言うだけではなくて、
自分のお寺をお守りするということも考えて下さいということを伝えましたら、
電話を切られてしまいました。。
一生懸命清掃して下さる御信徒の姿を見ながら、
ふと思い出した出来事でした。

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