朝ドラのばけばけで、お坊さんが出てきて
本因下種の南無妙法蓮華経
って言ってました、と御参詣の方が教えてくれました。
少し調べてみましたら、島根県の大雄寺さんのことだったようです。
飴買いの女
という怪談で有名で、法華宗本門流のお寺さんだそうです。
日隆師の流れをくむ門流で、それ故に
本因下種
と役の方も仰っていたんだと思います。
下記のような動画を紹介してもらいました。
1962年の作品ということですから、今からやく60年ほど前の日本となると思います。
先日お参りした方と一緒に見たのですが、いろいろと気付くことも多くありました。
その一つがとても風景が綺麗なことです。
機械も無い時代に手仕事でこれだけ畑や庭や家を綺麗にするのはどれだけ大変なことだったでしょうか。
今日は冬至です。
暗くなるのもとても早く5時ごろには黄昏時は越えているような感じです。
ところで冬至には柚子風呂に入るといいますが、何故だろうかと思って調べてみました。
冬至にゆず湯に入るのは、「冬至」と「湯治(とうじ)」、「ゆず」と「融通(ゆうづう)」の語呂合わせで「冬至の日はお湯に入って体を癒し、融通が利くように」という願いと、冬至は「一陽来復」で運気が上昇に転じる大切な日であるため、香りで邪気を払い身を清める「禊(みそぎ)」の意味、そして「長年の苦労が実を結ぶ」という願いが込められています。また、ゆずの香りや成分には血行促進・風邪予防・美肌効果もあり、寒い冬を元気に乗り切るための知恵でもあります。
だそうです。
ちょっと意味が盛りだくさんすぎやしないかと思いますが、寒くなる時期、風邪などを寄せ付けないようにとの思いもあったんだろうと思います。
でも、昔は、お風呂に皆が入れる時代ではなかったですから、お風呂に入ることができるだけでも有難いですね。
寒い時期ですので、温かくしてお過ごしください。
お墓参りをしていると、別にお墓参りをしている方と遭遇することがよくあります。
皆さんそれぞれの形でお墓参りをされるんだなぁと思うのですが、なかには来てもすぐに帰ってしまうかたもいらっしゃいます。
来るだけいいじゃないかと言われればそうなんですが、でも少し寂しいような気もします。
先日のお墓参りのとき、近くにいた別のお墓参りの方が話しているのが聞こえました。
「お墓参りに来ても、することないんよなー」
そうかぁ、ゆっくり手を合わせるということがなかなか出来ない人もいるんだなぁと思いました。
お経を読んであげるのがいいのに…と思うのですが、考えてみれば読める人は墓前経をしているでしょうし。
お経を読めるって大事なことです。
昨日、ちょっと外に出て見たら、

の通り、もやっていました。
写真では、というか今のスマホのカメラはすごいですね。
正直目視してもライトがフワフワに見えたくらいでしたのに、思っている以上に綺麗に撮れています。
雨が降った後だったからでしょうか。
いつもの街並みがとても幻想的な風景にみえました。
インターネットの記事で題名に、否定的なものがついていても、内容はそうではなかったり、逆に過大に肯定的であったりします
最近そういう言葉の誤用をあえてしていることが多いと感じます。
こちらは、あれどうしたんだろう?なんて心配して記事を見ると、ただふざけているだけだったりします。
大手メディアでもそういうことがあるので、困ったものです。
そもそも広告が多すぎて見てられないですが。
種種御振舞御書に
「いずみしきぶ、いろごのみの身にして…」
とあります。和泉式部が色好みでありながら雨を降らした、とあるところですが、この色好みは現在の意味とは異なります。
いろごのいみは、
「いろごのみ(色好み)」とは、恋愛の機微や情趣を深く理解し、洗練された恋愛を楽しむ人、またはその行為を指し、平安時代の貴族文化に由来する言葉で、単なる「好色」とは異なり、風流や教養も含む概念です。現代では「好色漢」のようなネガティブな意味合いで使われることもありますが、元々は優れた女性を選び、その霊力(巫女としての力)を得て国家を治める英雄の資質とされ、後に和歌や教養(数寄・雅)を楽しむ粋人(すいじん)を指すようになりました
とあります。
こういうところを気を付けて御書を拝読しなければいけないなと思います。
お寺にお参りしてくれたお子さんに、
1番好きなものは何?
と聞くと、
あれと、これと、それと、これ
とたくさんのものを挙げてくれたりします。
そうか、子供にとってと1番は一つじゃないんだ
と、とても新鮮な気付きでした。
別に1番は一つじゃなくてもいいのに、いつから1番は一つだと思うようになってしまったんだろうと不思議に思います。
日興上人のことを学んでいると、本当の厳しさとは何だろうかと考えます。
ただ、厳しいだけでは、がんじがらめになって、人は思考をしなくなってしまいます。
しかし、厳しさがなくなれば事故が起きる。
どっちなんだと考えるのですが、日興上人は思いやりに溢れた厳しさであったことがわかります。
たとえば、10回やって1回間違えた。
1回だから思いやりを持って見過ごす。
でも10回中、8回も9回も繰り返している。
それは思いやりをもって厳しさを伝える。
相手を思いやる心が大事なんだろうと思います。
ただ難しいのは、その思いやりが相手に届かないことがあることですね…。
忍辱の世の中です。
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