Monthly Archives: 2月 2022

待つと竢(俟)つ

「竢(ま)つ・俟つ」という字を最近はあまり見ません。

ところが昔の本を読むと、わりとよく出てきます。
読みを聞かれることもありますし、意味を尋ねられることもあります。

俟つは、
頼りにするや必要とする
を意味します。

ですから、待つとは意味がだいぶ違います。
そのことを下記のサイトが詳しく書いてくれています。

https://ameblo.jp/tratra-k/entry-11340189595.html

論をまたないも、待たないではなく俟たないと記述する方が正しいようです。

辞書も比較して読むことが大事だと教えられたことがあります。

辞書の持つ色は日本語の奥深さの証明と思います。
比較してみると面白い!

興師会

本日は興師会を奉修しました。
(参詣者は十分に感染症対策をした上でご参詣頂いております。
ご協力本当にありがとうございます。)

日興上人がセリが好物であったという伝承があります。
御宝前にセリをお供えし、謹んで御報恩を申し上げました。

また、「五人所破抄」から富士門流が和字の御書を
大切に拝読してきた由来をお話しさせていただきました。

日興上人が仮名の御書を厳護してくれたお陰で、
現在の私たちがたくさんの御書に触れることができます。
次の世代へと引き継いでいかなければならない護法の精神です。

法華経のはなし31回 序品のまとめ 心を一にして コロナ禍の2年 【字幕】日・英・ポルトガル語

胸を張って

今、「明治日本散策」(エミール・ギメ著)という本を読んでいます。

その本の中で下記のようなことが述べてありました。

「教育を受けた日本人が、自国の信仰を恥じるのは、奇妙なことである。
これはあくまでも私(ギメ※引用者注)の考えではあるが、日本が西洋思想に関心を寄せるようになったとき、
それを先導した日本人たちは、うわべだけをみて劣等感に駆られすぎるという誤りを
犯したのではないだろうか。
たしかに日本には蒸気を活用した工場も理工科学校もまだなかったが、
その代わり、なんと素晴らしいものをいくつももっていたことか。
それなのに彼等は、さしたる理由もなく、それらを放棄しているのである。
日本は自国の風俗に対し、あまり自身を持っていない。
彼らの力となり幸せの源となってきた多くの習俗や制度、考え方さえも、
あまりにも請求に一掃しようとしている。
だがもしかしたら、日本が自分たちを見直すときが、いつの日か訪れるのではなかろうか。
私は日本のためにそれを願っているのだ。」

どうしてでしょうか。
日本人が持つ劣等感というのは何故のものなのでしょうか。

自分たちの文化への誇り。
良きにつけ悪しきにつけ、自国の歴史を背負うこと。
そういったことの欠如は今に始まったことではないのかもしれません。

「それを謙遜というのだよ」
という人もいるかもしれませんが、
少なくともギメにはそのようには見えなかったのだと思います。

ことを矮小化しているようかもしれませんが、
自分自身に落としこんで考えたとき、
世の中の風潮や流れに惑わされず、胸を張って、
「私は信心しています」
と自分の信ずるものに誇りを持っていたいと思います。

雑記

コロナ禍がなかなか収まりません。

国が出す方針も、国民の思いとすれ違っていて、
ほとほと愛想が尽きます。

特に子ども達がとても可愛そうです。

確かに他者を守るために必要な措置でもあるとは思いますが、
同じくらい子どもを育むことや未来を守ることも必要だと思います。

子ども達は文句も言わないし、大人以上に素直に現状を受け止めてくれています。

子どもの思いを汲むことを大人が心がけなくて良いのでしょうか…。


節分

今日は節分会でした。
豆まきは導師のみが行い、皆様にはお供えをした豆をお持ち帰りいただきました。

豆まきの由来を調べると、様々な伝承があるようで、
詳しいことになかなかいきつきません。
裏を返せば、各地方において様々に受け継がれてきたことの証であるかと
思います。

当宗では、「福は内」とだけいって豆をまきます。

鬼はどこにいるのか。
外にいるのか?
我が内か?

鬼もひっくるめて福となし、
調えていくところがお題目の教えの有り難さであると思います。

どうぞ皆様に多くの福が訪れんことを。

ジョウビタキ

ジョウビタキが毎日やってきます。

いつごろからでしょうか?
毎年のようにやってくるようになりました。

とっても可愛い姿ですが、
かなりのイタズラ者です。

「なにしようかな〜?」
と物色しているところでしょうか(笑)

毎日寒いですが、
すこしほっこりさせてくれます。

ジョウビタキさん、ありがとう。

御経日

今日は御経日でした。

四条金吾殿御消息についてお話しをしました。

法華経の神力品に

この経典(法華経)のある場所は、たとえ林の中でも園の中でも、また山や谷や野原であっても、すべて道場であり、諸仏はここで涅槃に入られる

と説かれています。

すべて道場であるというのはとても深い意味があると感じます。

信心はどこか特別なもの、特別な人が行うと思われがちです。
それがとても悲しいです。

もっと自然に、もっと身近にあるのが信心です。

とくに法華経が説く信心は、私たちの行住坐臥、いつも側にあって、
時に励まし、支え、叱ってくれ、暖かく包んでくれる信心です。

そういう意味で、信心をしているものが、
あまり特別なもののように語らないで欲しいし、
信心をしていない人には、
もっと気軽に触れて欲しいと思っています。

今日はとても寒いです。

十分大事に過ごして下さい。