今日は久しぶりの雨でした。
15日の日曜日には法華講総会が開催されます。
少しずつ準備を進めています。

役員さんの辞令があるので、辞令を書いています。
何度やっても難しいです。
上手に書けた!と思って後で見返すと…、やっぱり下手だ、となります。
やればやるほど、納得できない…。
字は本当に奥が深いです。
ですから実に楽しいです。
今日は御信徒が草抜きにも来てくれました。
総会も楽しんで開催していたいですが、準備も楽しいですね。
話をしてみてはじめて気付くことが多くあります。
今更言うことではありませんが、コロナ禍でなかなか人と人との対話ができなかったので、感染症対策に注意しながら、しっかり時間をかけて話をすると、やっぱり気付かされることが多くあります。
コロナ禍は人と人との分断を作り出しましたが、では実際にコロナ禍が分断のはじまりであったかといえば、そうでもないと感じています。
人と話すのはめんどくさい、気を使いたくない、そういった思いによる分断は、もうずいぶん前からはじまっていました。
そこで、コロナ禍です。
人間関係の二極化が始まっているのかもしれません。
もう人と人と接することはなくてもよいと考える人。
実際、現代の社会の仕組みを使えば、無理に人と接しないでも生きていくことは可能であると思います。
一方で、人と人とが接することに価値を見いだそうとする人。
分断が深まっていく世の中ですが、つながりを取り戻そうとする人たち。
どちらが優勢なのかはわかりません。
私はつながりを大切にしたいと思います。
お醤油の貸し借りではありませんが、考えが違っても、信ずるものが違っても、同じ世界で生きている者同士、つながりを切ることはできないのだから、やっぱりつながりを大切にしていきたいと思います。
緑のカーテンを今年から初めてこしらえてみました。

毎年、クレマチスと時計草とジャスミンがわりとしっかり蔓延るので、どうにかできないかなと思っていました。
そうしたところ、緑のカーテンにしてみたら?とアドバイスをいただいたので、今年からやってみることに。
うまく茂ってくれるといいなと思っています。
この世界の内に望む変化に、あなた自身が成ってみせなさい。
ガンディーの言葉です。
社会に対する不満、経済に対する不満、いろいろな不満があって、私たちは当たり前のように変化を求めます。
でもその変化を自分に照らし合わせることができる人は本当に稀です。
では、自分ができない変化を他者へ求めてはいけないのか。
それは一概には言えないと思います。
一種の理想として皆で成し遂げていくべき変化もあると思うからです。
ただ、それには自分の変化を棚に上げて、傲慢に他者の変化を語ってはいけません。
結局、適切な謙虚さがなければ、理想とする変化を自分も他者も成し遂げることはできないと思います。
勤行をしていると呼吸が大事だと気付きます。
先日見ていたテレビ番組でも呼吸のことについて説明がありました。
人間の体は気管が長いので言葉を発達することができましたが、その一方で、呼吸において吸い込んだ空気が随分無駄になるようです。
無駄になるという言い方は悪いかもしれませんが、使い切れない空気が多くあるようなのです。
ですから、しっかり呼吸をすることで使い切れない空気を外の出すことが大事だというのです。
しっかり外に出すためには姿勢が大事だそうです。
なるほどと思います。
勤行をしていてなんだか声が出しにくいなと思っているところに、少し姿勢が曲がっていると指摘を受けました。
気付かぬうちにまがっていたようで、背筋を伸ばし、軽く胸をはるようにすると随分声がだしやすくなります。
そうするとしっかり吸って、しっかり声として吐き出すことができるようになります。
そういう勤行をしていると指の先までポカポカしてくるように感じます。
また、力を入れて声を出さなくても、声がしっかり出るようになります。
呼吸一つで勤行は変わります。
呼吸は大事です。
昨日、「物語り」ということを書きましたが、
これは決して作り話という意味合いではありません。
辞書には、
1 さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい―」
2 特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる―」
3 文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。狭義には、平安時代の「竹取物語」「宇津保物語」などの作り物語、「伊勢物語」「大和物語」などの歌物語を経て、「源氏物語」へと展開し、鎌倉時代における擬古物語に至るまでのものをいう。広義には歴史物語・説話物語・軍記物語を含む。ものがたりぶみ。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/物語/
とあります。
この1の用法の意味です。
広い意味で、人間同士の語らいや歴史そのものも物語りであると思いますし、また宗教自体を物語りであるとする学者もいらっしゃいます。
私も同意します。
信仰は物語りであると思います。
今信仰が元気がないのは信心に対する物語りが少なくなってしまったからではないかと危惧しています。
宗教を語ることはどうもタブーのようなことになっています。
確かに一般の人がタブーとしてしまいたくなるような宗教界の為体がありますから、今の風潮を単純に否定することはできません。
でも、宗教の素朴な部分、物語りによって伝えられてきた情感のある営みまでタブーの枠の中に納められてしまっているのはとても残念です。
「亡くなった人はどこにいきますか?」
最近よく聞かれます。
子どもはもちろん大人からもです。
昔はわりと年配の方などが物語してくれて、
「じいさんはどこどこにいるぞ〜」
「ばあさんはいつも側で見守ってくれているよ〜」
と話してくれました。
こういう物語りが無くなってしまったことは非常に残念です。
語らう機会自体が少なくなってしまったのでしょうか。
科学的にどうこうと言っているわけではありません。
死んだら終わりなんて人は思えないのです。
だからこそ、その先にいろいろな思いを持ち、たくさんの物語りがされてきました。
それは財産であり、生きる術でもあります。
「亡くなった人はどこにいきますか?」に対して、
誰しもに何かしらの答えは必要なのではないでしょうか?
昨日に引き続き読みにくい字です。
こちらは辞書で調べればすぐに読みが出てきます。
これは「さえずる」と読みます。
インターネット上の辞書では、
1 小鳥がしきりに鳴く。「カナリアの―・る声」《季 春》「―・るも帰りがけなる小鳥かな/浪化」
2 口数多く早口でしゃべるのを軽蔑していう。ぺちゃくちゃしゃべる。「よく―・る女の子だ」
3 地方の人や外国人などが耳慣れない言葉でしゃべる。
とあって、小鳥が鳴くという言葉のイメージしかありませんでしたが、いろいろな用法があるようです。
もう少し調べて見ると、このようなことわざがありました。
勧学院の雀は蒙求を囀る
勧学院は平安時代の最高教育機関の別院のことです。
蒙求は初等教育の教科書のようなものです。
勧学院に住んでいる雀は、知らずに蒙求を囀るようになるということですね。
門前の小僧習わぬ経を読むと同じような意味合いのことわざです。
現代人は意味を知ることが先行してしまいます。
これが良くないというわけではありませんが、意味を知ることにこだわりすぎると学問の幅が狭まってしまいます。
大人も子どもももっと素読(意味は分からなくても繰り返し口に唱えることで身に入れる学習法)に取り組んでみても良いのではないかと感じています。
またまた分からない字です。
「訇る」
なんて読むのかを調べて見てもなかなかでてきません。
https://ja.wiktionary.org/wiki/訇
上記のサイトでも音の読みがでてくるだけです。
色々調べて見るとどうも、
「ののしる」
という読みをするようです。
場合によっては
「のる」
とも読むようですが。
大声で騒ぐというような意味合いであるようです。
ということで、例の如く、
ニホンゴ、ムズカシイ…。
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