日本語での会話の中で出てくる、「えー」とか「あー」とか「うーん」などを、フィラーというそうです。
こういった間を埋めたり、次の言葉を考えたりするときに出てくる言葉は、多すぎると会話に集中できなくなるということで、基本的には嫌われるものです。
実際によどみなく話される方の言葉を聞いていると、ただただ感心するばかりです。
このフィラーが最近見直されてきているそうです。
一見無駄なように感じますが、会話のリズムを作っていく上で、また会話自体の演出として効果的な面があるというのです。
たしかに名人と謳われる落語家さんの落語を聞いていると、無駄なフィラーはないようですが、まったくフィラーがないわけではなく、大事なところで「うーん…」なんて言うと、ぐっとその場面に引き込まれるような感があります。
いずれにしても、無意識ではなく、効果的に使うことができなければフィラーはやっぱり無駄になってしまうようです。
皆様、台風による被害はありませんでしょうか。
寺院は今のところ何もなく過ごせています。
ところによっては、大きな被害になっていると聞きました。
自然災害は気の抜いたときが一番危ないといいます。
どうぞ皆様くれぐれも十分に注意を払ってお過ごしください。
台風が接近しています。
皆様くれぐれも気をつけてお過ごしください。
早めの判断、早めの批難をお願いいたします。
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宗教学者さんたちの話を聞いていると、仏教は科学と親和性が高いということをよく仰います。
それは、確かにそうだと思います。
仏教では、ものごとを分析した上で、実際の行動をどうするかということを考えるあたり、科学的思考であるといえると思います。
しかし、では、まったくそうであるかといえば、実は違って、微妙な差が大きな解釈の違いになって現れていることも多くあると感じています。
むしろ、西洋科学に親和性を高めるために、無理に同じ表現をしてしまった結果、本質的な意味が変わってしまった教えもあると思うのです。
明治の時代に西洋哲学や西洋科学が積極的に流入することになり、それまで日本で育まれていて信心や文化が、西洋のそれで再解釈されていくことになりました。
それによって分かりやすく教義を受け止めることができるようになった一方、先に書いたように、肝心な部分の解釈に無理が出てしまっています。
その違和感は、現代も引きずられていて、西洋科学や西洋哲学の立て直しが図られる今、それにひきづられる形で仏教も再度解釈しなければならないようになっています。
一度色に染まったら、その色を消すことはできない…
のかもしれません。
とにかく安易に西洋的なもので仏教を見ていくのは止めて、仏教を仏教として解釈、学んでいくことが今必要ではないかと感じています。
明日公開の動画は、三車火宅の譬えの続きになります。
舎利弗の釈尊に対する返答が絶妙で、何度拝読しても、すごいなぁと子どものような感想が出てしまいます。
釈尊としても、「その答えを待っていた!」といった感じでしょうか。
こういった場面を見ると法華経を拝読する楽しさを感じます。
そういった雰囲気が伝わればよいですが…。
漸く編集も終わり、何とか明日には公開できそうです。
道歌にうこんなものがありました。
堪忍は 一つ二つで ことたらず
一日中に千も二千も
なんだかとても心に響いた道歌です。
ちなみに道歌とは、
道歌(どうか)は、道徳的な、または教訓的な短歌をいう。様々な体験から出た世智であり、訓戒である。昔から日本人に親しまれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/道歌
とあります。
こういう耳にいい短歌は、今の教育では古い物としてしか扱われないのでしょうか。
字を練習するのにはどうしたらよいですかと聞かれました。
私も字はなかなか上手に書けませんが、筆で字を書くのはとても好きなので、字を楽しんで練習しています。
それで、皆様が筆字を書いているときに思うのですが、少し筆の進みが早すぎるように思います。
皆様が思っている以上に、ゆっくりゆっくり筆を進めること。
とにかくお手本と睨めっこをして書くこと。
そして、筆を立てること。
筆が寝てしまうといけません。
たくさん練習しなければ上手くならないのかといえば、そうであるともいえますが、一つの字を丁寧に書くことの方が上達の近道だと思います。
また、あまり上手くなろうとしすぎるのもよくありません。
字を書くことを楽しんで、書いてみてください。
とにかくゆっくりゆっくり書いてみましょう。
稲盛和夫氏の著作を読んでいると、良い方向に自分の思考をたもつことが大事であると書かれています。
確かにその通りだと思います。
これは、単純にポジティブ、ネガティヴという、分け方ではありません。
世の中には自身が意図せずとも悪い方向に状況が動いてしまう時があります。
そういう時でも自身の思考が引っ張られないように健全な思考を持つことは重要です。
ものすごく漠然としたものであったり、通念的かつ単純なものであっても良いですから、日頃から良い方向に思考をたもつ努力は必要なことだと感じています。
近頃、時代を作った多くの偉人と呼ばれる方達が亡くなられています。
そういった人たちを簡単に評価をすることはできませんが、時代が与えたものなのか、強固な意志のなせるものなのか、とにもかくにも多くの人々に影響を与えたことは間違いありません。
そういった方々が残された本などをなるべく機会がある限り、読むようにしています。
どの方も、多くの困難の中で生きてきたことが共通点です。
平坦な道を楽々と生きてきた方などいらっしゃいません。
そして、また共通点としてあるのが、そういう人生を支える良い言葉、良い思想に多く支えられていることです。
とてもたくさんの良い言葉と良い思考と思想を身に受けて、それらを人生の指針として生涯を歩まれていることが分かるのです。
決して独力で生きているわけではないことを知るということはとても大事なことです。
本日は御報恩御講を奉修しました。
御参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます。
雨が降ったりやんだりとはっきりしない天候でしたが、御参詣の皆様と大聖人様への御報恩を申し上げることができ、誠に有り難く思う次第です。
法話では、撰時抄の続きをお話しし、また、信心をする理由についてお話をしました。
今、世情によって、また信心が変な形で捉えられる状況になっています。
何年かに一度はこういう状況がきます。
本当に残念なことです。
信心というのは、信ずる心であり、誰しもが持っているものです。
何も信じていない、で生きることなんて誰もできないと思います。
そうであるなら、信というものがもっと大切にされて欲しいと思います。
そのためには、何を信ずるべきか、どう信じていくのかがもっと議論される世の中でなければならないのではないでしょうか。
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