Monthly Archives: 8月 2022

授記

授記とは、仏が弟子に対して、未来に悟りを得ると予言することで、仏が成仏する時の劫・国・名号等を説いて、成仏の保証(記別)を弟子に与えることをいいます。

もちろん法華経でも授記があります。

というより大乗経典において授記は重要な役割を持っている、といわれています。

ただ法華経における授記の重要性というのは、なんだか少し弱いような気がします。

たしかに舎利弗をはじめ、二乗たちに授記が与えられていきますし、その後には悪人成仏や女人成仏なども説かれていきます。

とはいえ、法華経の成仏観からいうと授記が絶対必要であったのか、ここで説かれなければならなかったのかといわれると、今ひとつしっくりこないものがあります。

全体的な儀式の中での授記がなされたという感じでしょうか。

この部分の違和感に法華経の成仏観を読み解くきっかけがありそうなのですが、まだスッキリしません。

おって気付いた点があれば、ここで書いていきたいと思っています。

食べるものもない

なんてことは現代では本当に少なくなりました。

でも、ほんの何十年前までは当たり前のように「食べるものがない」状況がありました。

そういう話をたくさん聞かせてもらいます。

コンビニもあるし、24時間のスーパーだってある。

自動販売機もそこら中にあります。

でも、その便利さは何によって支えられているのか、人間は考えようとしません。

戦前戦中を経た方とお話しする機会も少なくなってきて、思い出すのは、その世代の方の「もったいない」という言葉の重みです。

本当に自然ともったいないという言葉が出てました。

それは物に対しても、またその状況に対してもです。

「もったいないことです。」

今の私たちにはこれほど実感のない言葉は他にあるでしょうか。

長崎原爆の日

今日は長崎原爆の日です。

8月9日 午前11時2分。

修学旅行で長崎にいったとき、ここに原爆が落とされたのかと恐ろしさを感じました。

その後、被爆者の方に話を聞くことができました。

それは恐ろしさなどの言葉では語ることができないものでした。

そして、被爆者の方々は、

「被爆をしていない方々に、原爆のことを語って欲しい」

と仰っていました。

言葉を選んで尻込みしないでほしい、とにかくどんな言葉でも原爆について語って欲しいという強い思いがあったように感じました。

変えることができないこの歴史を私たちは語り継いでいかなければなりません。

雑記

戦争のことを学んでいると、戦争の原因になったものを探ることが如何に難しいのかということを感じます。

これはどんなことにも言えるのかもしれませんが、いちおう歴史の本にはきっかけになることが書いてあったりしても、ではそれは本当にきっかけにすぎず、実際のところを見ていけば、とにかくいろいろなものが重なって起きているということだけが分かるのです。

先日、御信徒と話をしていて、ありえない事故だと思われる物は、本当にいろいろなものが重なって起きるということを仰っていました。

確かに、ちょっとしたミスでも、原因を探るといろいろなことが見えてきます。

人間にとって、因果の法則とは本当に見極めの付かない難解なものであると思います。

そう考えると、少しでも「戦争という手段」というものが、たとえ小さくてもそういったものが重なっていけば、原因はわからなくても何かをきっかけに、また戦争を生み出すということになりかねません。

身近なところに「戦争という手段」はないだろうかと怖くなってしまいます。

雑記

昨日、広島原爆の日と書きました。

私の小さい頃は、8月に入ると、どのテレビも新聞も、大きく戦争のことを報道したり、特集番組を放送していました。

いつからでしょうか。

そういったものが少なくなったのは。

平時から放送して欲しいとはまではいいませんが、こういう時期にはやっぱり戦争のことにもう少し触れるようにして欲しいなと思います。

たとえば、戦争を知らない世代の青年たちに、戦争について語ってもらう番組などがあれば、とても勉強になるのにと思います。

広島原爆の日

ここに毎年のように書くべきなのか迷うのですが、最近、今日が何の日であるかを知らない方もいるそうなので、やっぱり書こうと思いました。

今日は広島原爆の日です。

77年。

昭和20年、1945年、8月6日に大勢の人が亡くなり、そこから77年、原爆による被害は続いています。

8月6日の一日ではなく、そこから77年ということを忘れてはいけないと思います。

戦争にまつわる特定の日は、その一日、一瞬を記するわけではない。

そこが本当に悲しく、空しく感じます。

謹んで追善回向を申し上げます。

法華経のはなし44 舎利弗の領解 踊躍歓喜 譬喩品【字幕】日・英・ポルトガル語

雑記

演繹と帰納と仏教ということについて、いろいろと書いていたのですが、ちょっとあまりにもまとまらないので、また別の機会に書きたいと思います。

ということで、少しだけ雑記になりますが、本というのは必要なときに隠れるのは何故なんでしょうか?

必死で探すけど、必要なときにはない。

もう無くなってしまったんだと思って、新たに購入すると出てくる。

二冊になってしまった本をどうしようかと呆然とする。

ということがあります。

という話をしていたら、ちゃんと目録を作っていますよと教えてもらいました。

確かに、以前からそのことを考えていたのですが、いつかは取り組まないと思いました。

毎度毎度、本を探す時間を考えれば、目録を作って整理する方がよっぽど時間がかからないことは十分承知しております…(笑)

さじき

桟敷(さじき)というと、現在では一段高くした見物席などのように使います。

鎌倉時代には桟敷という地名があったようです。
常栄寺というお寺の記録によれば、源頼朝が由比ガ浜の見物に桟敷をつくった場所が後に地名としても桟敷となったとあるそうです。

大聖人様の御書にはさじきと名が付く方が二名でてきます。

さじきの尼と桟敷女房です。

同一人物とする説もありますが、別人との説が有力のようです。

さじきの尼は後に妙一尼と呼ばれる方で、年齢的なことを考えると義理の姉妹になるのではないかといわれています。

少し混乱しやすいところです。

新潟方面の水害が気がかりです。

水害の被害に心が痛みます。

雑記

以前、挿し木に挑戦しているということをここで書きましたが(たぶん書いたと思いますが…)、初挑戦にしては上手くいっています。

こちらは紫陽花の挿し木です。

こちらはハイビスカス。

もう少ししたら植え替えをする時期になると思います。

しかし、毎日暑いのでどのタイミングですればよいのか見当が付きません。

少し涼しくなったあたりを見計らって植え替えをしようと思います。

挿し木ですが、とにかく直射日光が当たらないところで、水分をいっぱいあげると良いです…と上手くいったからといって調子に乗らないようにしないといけませんね。

という話をしていましたら、ある方に「挿し木は誰でもできますよ〜」と言われました(笑)