文章を読んでいて、「大節」という言葉がでてきました。
そんな言葉があるのだろうかと思って、「大切」と字の間違いでは無いかと思って調べてみたのですが、
大節 名〙① 大きな節操。重い節義。大義。※明衡往来(11C中か)上末「袋硯用二物吉一江秀才之許遣レ召可レ給。文道之大事人之大節也」※経国美談(1883‐84)〈矢野龍渓〉前「年猶壮(わか)しと雖ども慷慨にして大節あり」 〔春秋左伝‐荘公二四年〕② 重大な事件。大きなできごと。特に、国家の存亡にかかわる重大事。大事。
https://kotobank.jp/word/大節-557627
ありました。
思い込みで文章を読んではいけません!ということを改めて痛感しました…。
解脱を英語ではどのようにいうのだろうかと調べてみました。
すると、mokshaとありました。
ちょっと聞いたことがない単語だったので、そもそもの解脱の意味を調べてみました。
解脱
御書システム辞書
①梵語・ヴィモークシャ(毘木叉と音写)、ヴィムクティ(毘木底と音写)などの訳で、解き放れたこと。この世のすべての煩悩から解放されて、迷いの苦しみから脱し、真実の自由の境地を得ること。
サンスクリット語からの音写が語源のようです。
もとのサンスクリット語は自由という意味があるようです。
解脱は悟りや涅槃と同義語とされますが、経典によっては解釈が違うようです。
仏教用語の英訳は、意外な者ものに英訳があったりなかったりと結構探すのが大変です。
また英訳があっても実際の意味とは少しかけ離れているようなものもあるようで、言葉の壁はどこまていっても高いです。
「彰れる」をなんと読むのか分からなかったので調べてみました。
彰は
あきらか・ あらわす・ あらわれる
と辞書に訓読みがありました。
ですから、
あらわれる
と読めばよいようです。
確かに表彰するというのは表にあらわすという意味ですから、考えてみれば読めないはずがない…けど、読めない字がたくさんあります。
推測が大事ですね。
次回の法華経の話で化城喩品の中で説明をするのを忘れた種熟脱について話をします。
種熟脱は、下種益、熟益、脱益といって成仏の過程を植物の生長に重ねて捉えていく法華経独自の成仏観といわれています。
法華玄義や法華文句に釈がみえます。
下種益は大聖人様の教えを拝していく上でとても大事な法門です。
ところで、世間一般では仏性を自然に生命に観ますが、確かにこの下種という行為がなければ、衆生は仏の教えに縁をすることもないのですから、現代でも多くの人がイメージする「亡くなったら自動的に仏になる」というのは、本来の仏教からいえばあり得ないことであると感じます。
今日は朝から一日雨です。
境内の蝋梅がとても良い香りを届けてくれています。

蝋梅は、梅と書きますが、梅ではありません。
蝋梅は
ロウバイ科ロウバイ属の落葉低木、梅はバラ科サクラ属の落葉低木
https://lovegreen.net/gardentree/p282537/
です。
花は梅のようですが、枝の雰囲気が梅とは違います。
以前、梅園をおとずれたときとはまったく違う香りがします。
蝋梅の英語名は、
winter sweet
というとてもスィートな名前です。
蝋梅の前を通るたびに、香りを嗅ごうと立ち止まってしまいます。
本日は御報恩御講ならびに誕生会を奉修しました。
春が訪れたかのような錯覚を起こすような気持ちのよい天候の中、御参詣の皆様と宗祖日蓮大聖人様への御報恩を申し上げることができました。
御生誕800年を迎えましたので、一昨年ということで月日が過ぎ去る早さを思います。
大聖人様は小さな漁村で誕生されたことを終生、御自身の中心にすえておられました。
それは地位や名誉によらない、揺るぎない境地を得るために、またそれを他者へ示してくために、当時低い地位におかれた人々に寄り添っていかれました。
後に、
「日蓮は日本第一の富める者」
と宣言されるのですが、当時の大聖人様は世間からみれば決して社会的にも経済的にも富める者ではありませんでした。
それでも真の富める者との境地は、今を生きる私たちにも、揺るぎない安心を与えてくれます。
2月16日には家庭のお仏壇にて御報恩の読経唱題を申し上げ、真の富める者とならんことを御誓願ください。
今日勉強した言葉。
法匪 ほうひ
《匪は悪者の意》法律の文理解釈に固執し、民衆をかえりみない者をののしっていう語。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/法匪/
司馬遼太郎さんの本を読んでいて、この言葉が出てきました。
匪が賊の意味を持っていますので、良い意味としては使われない言葉です。
法律に精通していて、徹底的に法を構築していく人を、「あの人は法匪で困る」というニュアンスで使うこともあるようですが、もっときつい意味を持つこともあります。
法律は人の為にあるものですが、だからといって勝手に解釈を広げたり、御都合主義になってしまうと法律に意味が無くなってしまいます。
信心の面でも、「幅」ということが大事です。
大事なのですが、勝手に幅を広げてしまうと信心が曲がってしまうことになります。
結局いつでもいろいろな人とふれあいながら微調整を繰り返していくしかないのだと思います。
法華経の教えは、人の成仏だけではなく、草木も成仏すると説く教えです。
一般的な成仏観では解き明かされないところで、法華経の有り難い教えを示すことの一つだと思います。
他人を大事にするとか、自然を守るというときに、もちろん自分と他の違いは認めつつも、そこに同じ命をみるということができるかどうか、ここがとても肝心なところではないかと考えています。
人だけの成仏だけではなく、草木、石、砂、地球の成仏もみていく法華経の精神は、人間が自分という存在の中にだけ認識や注意を留め置いてしまう狭量さから、広大な世界にへと自身をつなげていくことになると感じています。
最近のご意見