仏教で説くところの悪人の定義は下記の通り。
心の良くない者や悪事をなす者で、善人に対する語。御書ではいろんな意味で使われているが、主には十悪・五逆等の悪業を重ねる者や誹謗正法の者を指して記されている
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では、十悪とは?
(1)殺生、(2)偸盗(ちゅうとう)、(3)邪淫、(4)妄語、(5)綺語(きご)、(6)悪口、(7)両舌、(8)貪欲(とんよく)、(9)瞋恚(しんに)、(10)愚痴(ぐち)の十種。
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五逆とは?大きくは、小乗の五逆と大乗の五逆があるようですが、
父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出し、和合僧を破る、の五罪。
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とあります。1つ1つの項目を見てもいろいろと考えさせられることが多くあってなかなか文章にまとまりません。
さらにここに正法誹謗の罪まで説かれていますから、悪人を一言で語るのは大変難しいと感じています。
特に正法誹謗が、他の罪や悪事と並べられ、いやそれ以上の罪として説かれていることを大事に考えなければいけません。
正法は悪人、ひいては私たちにとって最後の救いです。
それを誹謗することが何を意味するのか。
悪人を読み解く上で重要な観点であると思います。
動画で説話を少しずつ紹介していますが説話といっても様々なものがあります。
物語調のものもあれば、単純な説法であったり、また本生譚なども含まれたりするようです。
何冊かの本を参考にして話していますが、一つの説話でも、自分の心に響くときと、まったく響かないときがあって、不思議なものだと感じます。
あるときには何も感じなかった説話が、次に読んだときはとても気にかかるのです。
ですから意識して何度も同じ本を繰り返し読むようにしています。
今日は驚くほど暑い一日となりました。
当地ではまだ風は涼しいのですが、梅雨前に本格的な夏が来そうで恐ろしいですね。。
以前に釈尊の御一生には興味がありますかと問いかけましたら、思いがけずご要望をいただきました。
ということで今資料を集めて調べていますが、以外に釈尊に関しての著述はありません。
どれも表面的なことをなぞるような感じ似たり寄ったりです。
似たり寄ったりでないものは、参考になりにくい資料が引用されていたりして、これも感心できません。
ある本には、日本の仏教が釈尊を重要視してこなかったために釈尊の研究が進んでいないとありました。
とても納得します。
もう少し調べた上で話をまとめてみたいと思います。
山陽新聞のコラム、「滴一滴」に下記のような記車がありました。
https://www.sanyonews.jp/article/1396326?rct=tekiitteki
私は新聞で読んだのですが、Web上でコラムが読めるのは婦しいです。
それはさておき、少子化対策と言うわりに巷の声は現実に則していないと聞こえてくるわけですが、この記事を読めば、その理田も分かる気がしました。
せっかくデータが集められても、そのデータを参照する気がなければ、ただの想像の産物の対策しか生まれてこないわけです。
まずは正確な情報やデータを正しく収集することが大事なのでしょう。
先日もこちらで書いた「土木殿御返事」には冨木さんの情報に対して、四条さんの情報も聞いて判断すると答える大聖人様の姿がありました。
現美と正しく見つめようとする大聖人様の姿を拝することがどきます。
今日はこの時期には珍しい夕立が降りました。

ものすごい雲がもくもくと立ち上がったので、びっくりして写真におさめました。
その後、ガンガン雷がなって、ざーっと雨が降りました。
それにしてもこの時期にこのような雨は珍しいと思います。
最近の季節感に体も心もついていけない感があります。
本日は御報恩御講を奉修しました。
土曜日から大変な雨でしたが、皆様参詣する頃にはすっかり雨も上がりました。
御参詣の皆様と謹んで御報恩の読経唱題をつとめることができました。
深信の御参詣誠にありがとうございます。
法話では、「大果報御書」と「土木殿御返事」についてお話しをしました。
昨日の記事でも述べましたが、石灰虫がこの二書をつなげます。
当時佐渡にて深刻な飢饉であったこと、それは日本中で起きていたことなどが示されています。
ここでもよく述べていることではありますが、飽食の時代からは到底想像できない状況です。
ご飯を食べられるということは本当に有り難いことだと痛感します。
またそういった厳しい状況にありながら、富木常忍さんや四条金吾さんの活き活きとした信心を見て取ることができます。
人生の中においては苦しいというのは誰しもあります。
どうにもならない、なにもできない。
しかし、そういったときでも信心はできます。
一生懸命題目を唱えてみよう、日頃拝読できていない御書を拝読してみよう、信心の話を親しい人としてみよう。
苦しさを言い訳にしない、むしろ苦しさもひっくるめて生きていくことができるというのは信心の有り難さではないでしょうか。
富木さんや四条さんの信心にはいつでも学ぶことが多くあります。
大果報御書や土木殿御返事に石灰虫という穀物を食い荒らす虫が出てくるのですが、この石灰虫がどの虫のことを指しているのかはわかっていません。
石灰虫は、「いしばいむし」と読むそうです。(大果報御書の本文から読みがわかります)
石灰といえば、農作業の「石灰(せっかい)」が親しみがあります。
石灰は一説には防虫効果もあるようですが、土木殿御返事では天からその虫が降ってきたとあります。
いろいろと調べてみましたが、どういった虫なのかわかりませんでした。
石灰とありますから、白い虫でしょうか。
追って調べてみます。
信徒とお話しをしている中で、順番というものはやっぱり大事だということを深く考えさせられました。
大乗仏教では、自分の成仏は他者の成仏があってのものであると考えます。
むしろ他者の成仏を一番とすることで自ずと自分の成仏もあらわれるという順番が見えてきます。
我がの成仏が先に来ると他者の成仏は見えにくくなってしまいます。
大聖人様の御書に、他人のために明かりを灯せば、自分の前も明るくなるという御教示があります。
これも順番が大事で、他人のために灯すからこそ自分の前も明るくなる。
自分の前を照らすことが一番なら、他人に寄り添うことにはなりませんから、他人の前は明るくはならない。
他人のために明かりを灯すから、他人の前も自分の前も明るくなるという考えです。
そういうことを思っていると、あるラジオで経営者の方が、「自己実現のために他者を利用する人には支援はできない、他者のために生きるということが自己実現にも繋がって行くであろうという人に支援をする、この順番は大事だ’」と仰っていました。
大した違いではないと思いがちですし、ひっくり返っても同じように見えるかも知れませんが、順番は大事なのだと思います。
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