本日は、御報恩御講を奉修しました。
朝からあいにくの雨でしたが、参詣者がいらっしゃる頃には雨脚も弱まり、御参詣の皆様と宗祖日蓮大聖人への御報恩を謹んで申し上げました。
足下の悪い中の御参詣誠に有難く思う次第です。
法話では「南条殿御返事」についてお話しをしました。
まだ、16、17歳くらいの南条時光殿が、白麦などの御供養を大聖人様のもとへ届けられたことに対する返状になります。
南条時光殿は幼くして父を亡くして、若くして家督を継ぎます。
周りの人たちからの横槍なども多く入る中、当主としてやっていかなければならない。
そういったつらい状況を大聖人様に御報告されていたのかもしれません。
本抄の追伸では、そんな南条時光殿に対して大聖人様の温かい励ましの言葉が示されます。
思い切りなさい。もしダメであっても、身延の私の所に来なさい。
南条時光殿はどれだけ励まされたでしょうか。支えにされたでしょうか。
御書を拝するとき、その御書を賜った檀越の気持ちを考えると、また格別のものを感じます。
本日は、御逮夜法要を奉修しました。
謹んで、宗祖日蓮大聖人様への御報恩を申し上げました。
法話では、南条殿御返事を取り上げます。
大聖人様の残された御書には、真蹟(真筆)が残されているものがとても多くあります。
それらの御文字は容易く読めるわけではありませんが、じっと眺めているだけでも、とてもありがたい気持ちになります。
どんなお気持ちで認められたのだろうか?
と考えるのはもちろん、
どんな道具を使われたのだろう?
どんな場所で?
どんな姿勢で?
などと想像すると大聖人様を何だか身近に感じることができるように思います。
皆さんはどんなことを想像されるでしょうか。
カルガモが、用水路を泳いでる!

境内の裏手の用水路を優雅にカルガモが泳いでる?浮いている?進んでいる?のをみつけました。
カルガモの子ども達も、上手に関を乗り越えて、泳いでいます。
ご近所さんの情報によると、この辺りの用水路を巡回しているそうです(笑)
昨日、三毒についての動画をアップしました。
早速にコメントなどでご意見をいただきました。本当にありがとうございます。
自分の中の三毒に気付くことができること。
またその三毒を素直に受け止めることができること。
だれでも出来ることではないと思います。
みんな、自分の三毒を認めたくないし、できるなら三毒なんてなければよいと思うのではないでしょうか。
ですから、貪・瞋・痴があるよと説かれたときに、自分の内面に貪・瞋・痴を見ることができるというのは、それだけで三毒を乗り越える第一歩になると思います。
信心から得る醍醐味の一つに考え方を学べるということがあるかと思います。
自分の身の周りで起きたこと、起きそうなこと、また社会の中で起きたこと、起きそうなことなど、様々な事象はもちろん、自分自身の心のあり方に対して、どのように考えるか、どのように捉えていくかということを学ぶことができるのは、信心をしていて何よりのことだと思います。
対話をしていて、苦しいときにどうやって乗り越えたか、そのときどう考え方を聞くことができたときには、自分の苦しみも一つ乗り越えた気分になるくらいです。
人生において、考え方とうにはある意味生き方に直結するようなものでもありますから、健全な考え方を学んでいくことは、実に重要なことと思います。
ただ、いろいろな考え方を学んでいくのは良いですが、だからといってあれやこれやと学んでいくだけで、軸になるものがなければ、それは場当たり的なものとなり、自己矛盾を抱えることになってしまいます。
そういうことでも良いという人もいらっしゃいますが、やはり考え方には一つの軸となるものが必要だと思います。
私たちはお題目という軸になる教えがあるので、お題目を中心に考えることができるというのは、非常に有難いことだなと思います。
三毒について動画を作成していますが、ではその三毒とどのように付き合っていくかは、宗派によって考え方が違うようです。
大聖人様は三毒が盛んな私たちでもお題目を受持していれば成仏できる(趣意)ですが、だからといって三毒が盛んなことを積極的に肯定されているわけではありません。
三毒をほったらかしにするのではなくて、上手に付き合っていくことが大事だと思います。
三毒は根の深い煩悩なので、自分の中の三毒とつきあていくのは本当に難しいと常々思います。
本日は、御経日を奉修しました。
とても気持ちの良い天候の中、6月度の追善回向を申し上げることができました。
皆様には深信の御参詣を賜り、本当にありがとうございました。
本日は、大学三郎殿御書についてお話しをしました。
大学三郎は一説には比企能本であるとされます。
幕府の権力争いに巻き込まれる中、大聖人様に縁をしました。
大変な能筆とされ、幕府中枢に近いところにありながら、題目の信仰に励まれていました。
本抄はとても難解な御書になりますが、後半部分では戒律について示されています。
仏教ではたくさんの戒律があるけれども、末法のときにあっては、持戒は法華経受持であることが示されます。
本来、戒は、守っているからといって自慢をするようなものでもありません。
また、時にあわない戒律はこれも意味をなしません。
たとえるなら、現代にあって江戸時代の法律を守っていると喧伝するようなものです。
今私たちが、日々の生活の中で、守ることができる戒を大聖人様はお示しになってくれたのですから、私たちは言い訳せずに、この戒を持っていかなければなりません。
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