昨日はホームページのメンテナンスで更新が出来なかったのですが、一応できる限り毎日更新をしています。
他愛のないことばかりを書いているのですが、
毎日書くことがあるのですか?
と聞かれることがあります。
毎日書きたいことはあるのですが、文章にならないことの方が多くあって、下書きばかりが増えています。
今日はよく書けたと思っても、読み返してみると、言うべきことじゃなかったな…とか、何を言いたいのかわからないな…とか、そういうことが多くあって、ボツになることも一度や二度ではありません。
もうお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、今日も書いてみて、満足気分で読み返して、ボツにしました。
納得いく文章なんて書けた試しがありません。
本当に言葉は扱うのが難しいものだと思います。
本日は御書素読を行いました。
皆様には暑い中ご参加誠にありがとうございました。
今回も、四信五品抄を素読しました。
参加者と一緒に拝読することで、今まで思いつかなかったような疑問がでできて、改めて皆さんと一緒に考えています。
大聖人様は、観心として、自分自身の内面性にアプローチしていく一方、ある一定の社会性も最晩年まで有していらっしゃいました。
どちらかに偏り過ぎない信心姿勢を忘れてはいけません。
宗教の定義は難しいということはここでも何度も紹介してきましたが、そもそも何かを定義するということ自体がとても難しいのだと思います。
あなたにとって〇〇は何ですか?
というようなことを聞くと、答えは十人十色であるように、言葉で何かをくくるということが無理が生じやすいのではないでしょうか。
分かるは分けるとこだといいますが、分かるというのは分かれていたものが結びつくことだったりもしますから、定義できたからと言って、その対象がわかるわけではないということを注意しておく必要があるかと思います。
でも、こうなると何で定義する必要があるのかということになってしまうので、やっぱり定義があると全体像を掴みやすいこともあり…、
結局、堂々巡りになってしまいます。
NHKの番組で、アジア圏の大学のトップの方々が集まるシンポジウムのようなものをチラッと見ました。
チラッと見ただけで語るものでもないのですが、各大学の人工知能に対する取り組みが紹介されていました。
その中で、東大の総長が、
人工知能の扱う領域は10の10乗に及ぶ。物理学の専門家は宇宙の星は10の11乗あり、つまり人工知能はそのレベルまで近づいている。人工知能は宇宙論の範疇だ。
というようなことを仰っていました。
一般の人が思う以上に広範なものになっているのが今の人工知能で、学問の垣根など、とうに超えている。
であるなら、宗教は人工知能に対してどんなアプローチをするでしょうか?
宗教側が人工知能は人間を超えるか超えないかで論じている場合ではないのかもしれません。
本日は、近隣の寺院と合同題目講を奉修しました。
暑い中、ご参詣いただき本当にありがとうございました。
1時間の唱題行に励むことができました。
大勢の唱題で、
元気をもらえた
自宅でももっとお題目を唱えたい
など、たくさんの喜びの声を聞くことができました。
題目講終了後は机を囲んで、お題目について語り合いました。
皆さん楽しい時間を過ごすことができたようです。
準備をしてくれた皆様、本当にありがとうございました。
読めないシリーズ。
寂寞
せきばく または じゃくばく
意味は
ひっそりとしていて寂しいということ。
だそうです。
寂はわかりますが、
寞の字自体にも、
さびしい、ひっそりとしている
という意味があるようです。
本日は、月例の御経日を奉修しました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
大変暑い中御参詣いただき本当にありがとうございました。
法話では、『弁殿御消息』を拝読いたしました。
鎌倉におられた日昭師に対して、いろいろな指示がされているお手紙です。
その内容は多岐にわたり、宗祖と門下一同の動きがいかに活発であったかがよくわかる内容です。
その中で、祈りについて言及されている部分があります。
師弟思い合わぬ祈りは、水の上に火を焚くようなものである。
大聖人様はまっすぐに私たちのことを祈り導いて下さっているのに、こちらがわの信心がしっかりしていないと、思い合った祈りにはなりません。
いつでも自分の信心を省みて、信仰に励むことで、健全な信心をたもつことができるのです。
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