15年

東日本大震災から今日で15年となりました。

今日御参詣の御信徒が、

「今日は寒いですね。そういえば、あの日も寒かったですね」

と仰っていました。

確かにそうであったように思います。

雨は降らないものの肌寒い一日であったと記憶しています。

ただの一日であれば、天気など覚えていないはずです。

ですが、あの日の天気は思い出すことができます。

速報を見ながら、ふとみた窓の外の天気を覚えています。

15年経ったとはいえ、今日はそういう日なのだとあらためて思いました。

謹んで御回向を申し上げます。

雑記

一般の人から受けた人生相談をまとめた本を読んでいると、若い人がたびたびに

意味はあるのか?

という問いを立てることが多いように感じます。

どうも、タイパや効率化、納得感などを求める傾向にあるからのようです。

この問いに対し、

意味なんて考えてもそれこそ意味はない。考えずにやれ。

と突き放すのはいけません。

意味さえわかれば目の前のことを実行しようとする世代ですから、

一緒に意味を考えよう

というスタンスが良いと思います。

ただ、若い世代はこうだと一括りするのも良くありませんね。

その人その人の問いに真剣に向き合うしかないのかもしれません。

昨日の投稿が言葉足らずであったので、もう一度まとめ直しました。

依法不依人とは、法を拠り所として人に依らないという教えです。

これは、判断の基準を人ではなく法に置くという姿勢を示しています。

この考え方は、現代社会における法治主義や「法の支配」という理念にも通じるところがあります。

人間は本来、誤りを犯しうる存在です。

だからこそ、人が人を支配するのではなく、人の上に法を置き、法の下に社会を構成しようとするのです。

人類は長い歴史の中で多くの失敗を重ねながら、知恵を出し合い、また多くの苦い経験を経ながら、ようやくこのような法と人との関係を築いてきました。

ただし、仏教における「法」は、単なる法律とは異なります。

仏法とは、森羅万象の真理であり、それゆえ人が生きる指針となります。

そして、人も仏も、この仏法によって成仏するのであり、そこにおいて法は極めて重い意味を持ちます。

では、その仏法は誰が解釈するのでしょうか。

これは、あくまで個人の意見ですが、仏法は特定の誰かだけが解釈するものではなく、それを受容するすべての人が解釈していくべきものであると考えます。

もちろん、解釈とは自由勝手に意味を与えることではありません。

解釈は何の指針もなく行えるものではなく、本来は言語を学び、その言語が意味するところを理解することによって可能になります。

仏法を解釈するためには、経典の言語や仏教の概念を学び、さらにそれらを解釈してきた多くの先人の理解を学ばなければなりません。

そのうえで、自分自身が仏法を考え、解釈していくことが必要です。

この解釈の営みは、決して一人だけの思考では完結しません。

他者の意見を聞き、考え、取り入れ、さらに考えるという営みを繰り返していくことになります。

そうした対話と熟考の積み重ねの中で、人はある一定の理解の地点へと辿り着くことができるのではないでしょうか。

したがって、自由勝手な解釈は本来の解釈という行為とは言えません。

また、仏法を受容する人が、解釈することそのものをやめてしまうこともまた問題です。

学ぶことをやめたとき、人間の成長は止まります。

そしてそのとき、仏法は生きた指針ではなくなり、むしろ仏法の名の下に暴走する可能性すらあります。

仏法を学び、考え、解釈するという営みそのものが信心修行ではないでしょうか。

難しい法門を理解することをゴールとするのではなく、解釈し続けることが、学び続けることが仏法を健全に護ることにつながると考えています。

御報恩御講

本日は、御報恩御講を奉修しました。

御参詣の皆様と、謹んで宗祖日蓮大聖人様への御報恩を申し上げました。

御参詣頂き誠にありがとうございました。

法話では、宝軽法重事についてお話をしました。

依法不依人は、法に重きを置く教えです。

これは現代の法治主義や法の支配という考え方にも通じると思います。

支配というと強い感じがありますが、人間が間違える存在であるという前提にすれば、人の上に法をおいて、法の下に社会を構成するというのが法の支配になるでしょう。

人類が歴史上、知恵を出し合って、また悲惨な経験を通して、なんとかひねり出したのが、この法と人との関係です。

もちろん、メリットデメリットはあるわけで、法により支配は法そのものを問うていくことも必要です。

そして、人間が考えた法律と、森羅万象の真理を顕した仏法を同一視することはできません。

ただし、構造として法が重い位置にあるという共通点があると思います。

人も仏も、仏法があることによって成仏した。

法は重いんだ。

という考えを大聖人様は鎌倉時代にして、世間へと主張していたということになります。

依法不依人の信心を私たちもしていますから、あの人はどうだとか、この人はどうだと、人で判断せず、法で判断していく視点を忘れてはいけないと思います。

御逮夜法要

本日は御逮夜法要を奉修しました。

謹んで宗祖日蓮大聖人様への御報恩謝徳を申し上げました

法話では、「宝軽法重事」についてお話をしています。

このお手紙は西山殿に与えられたお手紙です。

西山殿は、現在では日興上人の祖父にあたる河合入道であるとの研究結果もございます。

依法不依人を示されているお手紙で、短いながら大聖人様の御法門をよく顕しています。

依法不依人は、社会でいえば、法治主義や法の支配という考え方をすでに言い当てている御法門でもあります。

この法をただ護るだけでなく、この法がよりよいものであるのか、それをどう護るべきなのか、いろいろと考えさせられます。

明日は御報恩御講です。

二月後半に暖かくなりましたが、ここ数日また寒くなってきました。

そういえば去年も三月が寒かった記憶があります。

やはり彼岸までは気が抜けません。

共感

NHKのフロンティアという番組で、共感について放映していました。

共感することで対立を乗り越えることができると思っていましたが、この放送では、共感がまた対立を生むことが指摘されていました。

共感する力がないから争いを生み出しているわけではないということです。

では、他者を排除しようとする共感をどう制御すれば、争いは止むのでしょうか。

番組内ではいろいろなことが示唆されていました。

いずれにしても、難しいアプローチと感じました。

なぜなら、良い悪いは別にして、共感は人間の本能に近いところにあることも指摘されていたからです。

この本能を制御できるのは、理性か知性か。はたまた別の本能か。

難題ですが、その難題に取り組んでいる人がいることが救いだと思います。

児童書

児童書の中には大人も楽しめるものがたくさんあります。

今日見つけたのは下記の本。

戦国さがし絵 群雄割拠! 天下統一への道

https://www.bunkei.co.jp/books/books/4434.html

戦国の絵図から特定の人物や旗印などを探す本です。

ウォーリーを探せの戦国版でしょうか。

とても面白いです。

視点を低くしたり、門戸を広げるための工夫が新たな発見を生むということを示してくれていると感じました。

御書素読

本日は御書素読を行いました。

ご参詣の皆様と種種御振舞御書を拝読しました。

ご参加誠にありがとうございました。

今回は、塚原問答ののちの出来事でした。

本間重連が大聖人様の指摘が的中したことに驚く場面が出てきます。

本間さんは大仏宣時の家人でした。

宣時は大聖人様を迫害した人物です。

しかし本間さんは状況的に見る限り大聖人様をかなり支援、または一説には帰依したとも伝わります。

佐渡での日々は苛烈なものであったことは間違いないのですが、大聖人様を支えられた方も確かにいらっしゃいました。

どんな状況にあっても誠実に生きていれば、必ず理解してくれる人があらわれるということを示してくださっていると思います。

持経者

「吾妻鏡と鎌倉の仏教」著菊池大樹に持経者の定義について次のようにあります。

「経典を記憶して忘れず、とくに暗誦する修行者」39ページ

この持経者に関しては、さまざまな経典や陀羅尼を持経する事例が残されているそうです。

その中でも特に法華経が多数を占めるとあります。

特に平安時代後期になると在家の人物にも法華経信仰に傾倒する人が現れるようになるとあります。

その代表例として頼朝が挙げられています。

大聖人様が示される持経とは、暗誦するだけでなく、もっと踏み込んだ色読ということがありますが、改めてこのような定義が挙げられると持経者のイメージが沸きやすいですね。

お言葉