今日は当地でも朝は冷え込みました。
畑の方に出てみると、

霜とまではいきませんが、一面真っ白でした。
全国的にかなり冷え込んでいるようです。
でも昼間はポカポカ陽気と言って良いほど、日差しも暖かく、日の当たるところでは過ごしやすい1日になりました。
◇◇
法事を申し込んできてくれた男性。
その男性のお父さんは、
「息子たちには法事なんてしなくていいからって言ってるんよ。息子たちはそもそもせんじゃろうけどなぁ。」
と仰ってました。
そのお父さんが亡くなって、子どもたちは親の意に反し、丁寧に法事をしてくれています。
子供の孝養の志を親がどうこう言わなくてもいいんだろうと思います。
教育の問題がいろいろと言われる時代です。
古い本を見ても、
「最近の若者は…」
と書いてありますから、今の時代に限ったことではないのかもしれません。
教育の問題は、受ける側、教える側のどちらかに原因があるのではなく、どこか二つが噛み合っていないように感じます。
受ける側、教育を受ける理由を見失っている。
教える側、教える熱意を失っている。
現代の教育は、「教」に重点が置かれていますが、教育は「育む」ことでもあります。
育つ、育むことについて考えてみることも必要だと思います。
様々な研究をされている方と話す機会があって、全くど素人の質問を投げかけてしまうことがあります。
とても丁寧に回答していただいて、何だか申し訳ない気持ちになっていることを伝えると、
「いやいや、こちらもとても勉強になります、いろいろな見方がわかるので」
と御返事いただくことがほとんどです。
最初は気を使って仰ってくださっていると思っていました。
しかし、今は本当にそう思っていらっしゃると感じています。
深く研究するほど、他の視点を得たいと思うし、噛み砕いて話すこともあるからです。
と思っていますが、気を使ってくださっているだけだったら、どうしよう…。
口は災いのもとであることは大聖人様のご教示にもたくさんあります。
最近のニュースにも一言が災いになってしまったなということがたくさんあります。
心にあることが言葉になりますから、
「思ってもいないことが口に出た」
なんてことは、ないんであろうと思います。
心にあることを表現することは本来言葉以外にもあるのですが、インターネットの世界は言葉偏重なので、ますます災いのきっかけになりやすいのではないかと思います。
最近、とても乾燥しています。
乾燥してくると木戸に隙間ができます。

湿気が増えるとこの隙間は見事に塞がります。
ただ、このまま隙間があるのも良くないかなと思い、竹で隙間を埋めました。

また湿気が増える時期の様子を見て、調整したいと思っています。
しかし、自然の素材は湿気の影響を受けて動きがあるので、一緒に季節を感じているようでありがたいです。
勉強法というのは人それぞれなのだなと思います。
ノートに書き写すとか最近はパソコンなどでまとめるとか、頭の中で処理するとか、人それぞれです。
世代によっても違うのかも知れませんが、自分たちの時代はノートに書き写すなどして考えを整理するということが主流だったように思います。
最近は一番効果のある勉強法なども紹介されていて、そういうものを見ても、結局は自分にあった勉強法を自分でどれだけ見つけることができるかにつきるのではないかと感じます。
あまり効率の良い勉強法ということを言われると、何だか興ざめしてしまう感もあります。
勉強は遠回り遠回り…なんてことをすぐに言いたくなってしまうのですが、学校の勉強について行けなかった言い訳にしかならないのが苦しいところです(笑)
今日は夕方に雹が降りました。
当地では、雹が降った記憶は何年も、もっとかな?、少なくもこの10年近くはないので、突然のことに驚きました。
数分のことでしたが、風や雨も強く、異様な雰囲気でした。
昔の人が雹にただならぬものを感じた理由もわかりました。
今年はサツマイモが順調に育ってくれて、無事収穫となりました。

5月、6月にわりと雨が降ってくれて、その時にしっかり根が張ってくれたからでしょうか、暑い夏も何とか乗り越えてくれたようです。
よく頑張った!本当によく頑張った!
僻見というのがありまして、いわゆる偏ったものの見方のことをいいます。
もっといえばゆがんだ考え方という意味もあるようです。
私たちは物事を見るに、自分のフィルター、他人のフィルターを通して、それが何であるか、どういうものであるかをとらえています。
…といいたのですが、他人のフィルターを通すことはあまりなく、思っている以上に自分の思い込みの中で他者を批評しています。
それが人間の性質ですから致し方ないのですが、この思い込みは他者に対してはもちろん、自分に対する思い込みもかなり強くあります。
ですから、ちょっとしたときに自分の思いがけない点に気付いて、自分にはそんなところがあったのかとようやく分かることがあるのです。
そのちょっとしたときは、他人を通したり、また本当に些少な出来事であったりとどのタイミングで来るかがわかりません。
そのタイミングが来たときに、ここからが一番大事だと思うのですが、そのタイミングが来たときに、その徴(しるし)を素直に受け止めることができるかどうかによって、思い込みから離れられるか離れられないかの違いがあります。
素直に受け止めることができれば、思い込みから離れられる。
素直に受け止めず、いいや自分は違うんだと強情になれば思い込みから離れることはできない。
結局同じような結論にいたってしまいますが、人間、素直になれるかがとても大事だと思います。
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