本日は御経日を奉修しました。
快晴の中、ご参詣の皆様と先祖回向を謹んで申し上げました。
深信の御参詣誠にありがとうございます。

法話は、南部六郎三郎殿御返事についてお話しをしました。
南部六郎三郎から大聖人様に対し法門についての質問の手紙が届いたということから本抄は始まります。
その質問に対して答えていくのが本抄の内容になりますが、その内容に答える前に
但し此の法門、当世の人上下を論ぜず信心を取り難し。
ただし、この法門について、今の人々は上から下までみんな信じようとしない。
と仰せです。
なぜ世間の人々は信じようとしないのかというと、
「法華経には現世安穏後生善処とあるのに、日蓮は多くの迫害を受けている。」
からだという当時の世間からの大聖人様への批判が示されています。
この批判に対し、
「そのような批判が起こることは、当初から予想していた。なぜなら、法華経を行ずることで迫害を受けることは、法華経に確かに説かれているからだ」
と仰せです。
質問に答える前に、南部六郎三郎に対し、世間の稚拙な批判に惑わされないようにしなければならないという注意を促していくのです。
私たちも世間の中に生きていますから、世間の情報から隔絶して生きていくことは出来ません。
だからこそ、世間の評価や情報に流されないように、確固たるものを持っていなければなりません。
鎌倉時代ですらそうなのですから、現在のように情報が氾濫している時代ですから、しっかりと見極めていく眼を持つようにしましょう。
今日は御経日を奉修しました。
今年一番の冷え込みとなる中、皆様には御参詣をいただき誠にありがとうございました。
皆様と本年最後の御経日でご先祖への追善供養を申し上げることができ、誠に有り難く思う次第です。
法話では、土木殿御返事についてお話しをしました。
佐渡から土木殿へと与えられた御書です。
途中、天台大師や伝教大師をも越える宗祖の御自覚が示されます。
それは決してうぬぼれではなく、法華経の行者を地で行く覚悟が示されているとも思います。
また文末には、世間的には苦しい状況にあっても、法華経の視点からは自分はとても悦ばしい状況にあると、「法華経に生きる」ということの力強さを拝することができます。
「法華経に生きる」と簡単には言えますが、実に奥深い境地であると感じます。
今日は御経日を奉修しました。
雨が降る中、深信の御参詣を賜り誠にありがとうございました。
謹んでご先祖の御回向を申し上げました。
法話では諸法実相抄についてお話しをしました。
前段部分は難解な法門が続きます、後段は「行学の二道を…」という有名な御文が示される部分となります。
当宗では一に信心、二に行、三に学と教えられます。
行だけが先走ったり、学だけを深めようとしてもいけません。
まずは信あっての行である学です。
一方で信心があれば行も学も無くて良いのかといえばそんなことはありません。
そもそも信心ある人は行も学もあるものです。
ですから、信、行、学はいつでも日々の信心の中にあってしかるべきであると思うとよいでしょう。
行や学がなくなってきたなと思ったら、それは信も無くなっていると反省しましょう。

昨日は、御経日でした。
彼岸会に引き続き、皆様には深信の御参詣を賜り誠にありがとうございました。
すっかり秋らしい気候の中、清々しくお題目を唱えることができました。
この度の説法では、「経王御前御書」を取り扱いました。
経王御前が誰の子どもであるか、また経王御前は男の子であるのか、女の子であるのか、様々な見解があるようです。
印東金吾祐信の子という説と四条金吾の子という説があります。
また、御前とつきますと女の子である場合が多いようですが、本抄や他の御書から考えると経王御前は男の子であるとの考えることができるようです。
私たちは四条金吾の子どもで、男の子である説を取ることが多いです。
しかし、後の経王御前御返事や、建治三年にかけられる四条金吾殿御返事から考えると経王御前は長命をいただくことはできなかったようです。
ほんの何十年前までは、子どもが大きくなるということは大変なことでした。
今は良い時代で、多くの子ども達が健やかに成長できるようになりました。
とはいえ、時代はどんなに変わっても、子ども達が何事もなく成長してくれることは大変に有り難いことです。
そんな有り難いことを忘れて、子ども達に多くの事を求めたり、親のエゴのために子ども達が苦しむ姿を見るのは本当につらいことです。
相手のことを思わず物言いする親の姿を子ども達はしっかり見ていますよ。
今日は御経日でした。
(参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
あいにくの雨模様ですが、盂蘭盆会に引き続き御参詣をいただき誠に有り難く思う次第です。
ともどもに追善回向の読経唱題をお勤めすることができました。
お話しでは、土木殿御返事についてお話ししました。
大聖人様が、佐渡流罪ではじめて入られたのが塚原でした。
その後、一谷という場所に移られるのですが、よく言われているのは、塚原よりは安全な場所に移られたというものです。
しかし、この一谷に移られてすぐ認められたと言われている土木殿御返事には、冒頭かなり厳しい状況であることがわかる御文があります。
やはり、大聖人様は佐渡におられる間は、非常に危険な状況にあったことは間違いないのではないかと思います。
そのような中でも弟子檀越のご信心を励まされています。
その当時だけではなく、御書を拝読する中で今の私たちの日々の信心を励まされています。
慈悲の御心は時を超えるのだと強く感じています。
本日は御経日を奉修しました。
(参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
大変暑い一日でしたが、皆様と追善回向を申し上げることができ本当に有り難く思った次第です。
法話では、佐渡御書についてお話しをしました。
文永9年2月は、大聖人様にとっては開目抄御述作の重大な月であり、鎌倉幕府にとっても二月騒動(北条時輔の乱)という大変物々しい月でした。
また、佐渡へ配流となって大変困窮する生活の中、その翌月の3月20日にあらわされたのが佐渡御書です。
いろいろなことが多く盛り込まれた御書です。
布教のあり方。
それまで仲間だと思っていた弟子檀越が手のひらを返すという獅子身中の虫について。
厳しい生活で紙もろくにないこと。
ご自身が大変な状況の中、二月騒動に巻き込まれた弟子檀越がいないかと心配する大聖人様の御慈悲。
そして、修学と後進の育成、また布教活動のために、書物を佐渡に送りなさいと仰る意志の強さ。
少し長い御書ですが、是非共皆様御拝読いただきたい御書です。
今日は御経日でした。
(御参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
法話では草木成仏についてお話しをしました。
有情と非情という観点から、成仏の範囲はどこまでなのかを問うていきますと、法華経の成仏というのは有情非情隔てなく成立するものとの教えがあります。
むしろ、非情の成仏があるからこそ、有情の成仏、私たちの成仏もあるととらえて良いと思います。
そういう法門をもって現代をみると、環境問題というものに対して、人間がどうこうしてやるというような姿勢ではなく、共生ということをテーマに取り組んでいくことが大事であると思うのです。
非情(草木)と有情は共に生きていること、共に成仏すること、自然と共生すること、自然を守ることは自分たちを守ること。
法華経の精神は、現代の環境保全に大切な視点を示していると思います。
本日は御経日を奉修しました。
(御参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
少し肌寒く感じる一日でしたが、
謹んで先祖回向に参詣者一同勤めることができました。
本当に有り難いことです。
また5月1日は大行会(南条時光殿祥月命日忌)にあたりますので、
謹んで御回向を申し上げました。
お話しでは、『佐渡御勘気抄』について述べさせていただきました。
鎌倉時代当時には、差別の対象となった人々がおられ、
大聖人様はその人々と同列であるとの宣言をされています。
これは、あくまで私たちと同じ目線で教えを説いて下さることの宣言でもあります。
それは本当に安心、本当の導きを感じます。
今も隣にあって私たちを導いてくれていると感じることができれば、
なにも寂しいことはないし、何も不安になることはありません。
佐渡流罪という言葉には出来ないほど恐ろしい状況にありながら、
それでもなお衆生を導くための立場を堅固されていたのです。
まったく凡夫ではいたらない法華経の行者の姿がそこにあります。
今日は御経日でした。
(ご参詣の皆様には感染症対策にご協力頂き本当にありがとうございます)
彼岸会に引き続き謹んで先祖諸精霊の追善回向を申し上げました。
今日は寺泊御書のプリントを作成し、
少しだけ補足の話をさせていただきました。
寺泊御書は真筆(大聖人様の直筆のもの)が残っている御書です。
その御文字を拝しますと、これから佐渡に流される方が書いたとは到底思えないほど、
誠に静かに力強く、また読んだ者に安心を与えるものと感じました。
私のボキャブラリーの少なさですが、とにかくこの御文字を拝しますと、
「すごい」とうなるばかりです。
どれだけ芯が強ければ、どれだけ信が強盛であれば、
死地にむかう方がこれだけの文字を書けるのでしょうか。
あらためて、そのすごさに圧倒される気がいたしました。
今日は御経日を奉修いたしました。
(御参詣の皆様には感染症対策にご協力頂き誠にありがとうございました。)
あいにくの雨でしたが、
深信の御参詣を賜り誠にありがたく思う次第です。
法話では、『転重軽受法門』についてお話しをしました。
重きを転じて軽くうける。
この教えは、三世を生きているということを意識しなければ、
なかなか受け止めることはできません。
現代の人は、今を生きるということにとらわれているようです。
今ってなんでしょうか。
今はすぐに過去になるし、
未来は今になり、また過去になる。
過去現在未来の三世の流れの中に今という一瞬はあります。
つまり、今を生きていると思っても、
私たちは常に過去、現在、未来の三世を生きているのです。
そのことを意識するだけで、物事の見え方は変わってきます。

(法話プリントは寺院においてあります)
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