御信徒の過去帳をめくると昭和20年に至るまでに亡くなられた方のお名前を目にします。
なかには、戦地にて亡くなられたことが横に記録として書き添えていることもあります。
どれほどのことがあったのか想像だにできないのですが、しかし、多くのお名前を見るにつけ、戦争の残酷さに胸が痛みます。
ある方から、下記の本を教えていただきました。
ペリリュー島で起きた戦闘をもとに描かれた本です。
中には作者が戦争を語ることの難しさも吐露されています。
戦争を語らなければならない。
しかし、戦争を知らないのに語ることができるのか、語ってよいものなのか、自問自答が繰り返されます。
ただ、ふと気が付きました。
戦争を経験していない人が戦争を語ることは、それだけ、戦争をしない時代があったことの証明でもあります。
そう思うと、これからも戦争を経験していないで戦争を語る人が増えることを強く望みます。
気になる読みがあったので、二点ほど。
これは、「とても」と読みます。
「とてもかくても」
とか、
「とても無理なお願いです」
のような時に使います。
「こんな字、迚も読めません!」
これは、「ゆげ」と読みます。
古代の日本において、弓を製作していた職能集団であったようです。
物部氏と関連が深かったり、道鏡のことを指したりする他、
岡山県にも縁が深いそうです。
吉備弓削部には吉備弓削部虚空がいる。備前には、饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫・物部氏が関係する、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣を収めたという石上布都魂神社がある。この近隣には様々な職能集団が形成され、その中の一つに岡山県久米郡久米南町の「弓削」がある。浄土宗の開祖・法然の両親が参籠したといわれる、美咲町の本山寺を天永元年(1110年)に開いた人物として、「弓削師古」の記述が見られる。久米南町の蓮久寺は菩提寺として建立されたと伝わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/弓削氏
wikipediaには上記のようにあります。
調べていくとどんどんいろいろなことが関連してでてきます。
とても興味深いです。
よく仏教は死後のことを説いていないという言説を聞くことがあります。
それ故、葬式や法事、追善供養などの精神は仏教にはないということも言うそうです。
以前からこの言説に対して、本当にそうであろうかと思っています。
ちょっと話は変わりますが、鎌倉時代より以前の一般の人の生活はあまりはっきりしたことがわからないそうです。
それは記録がほとんど残っていないから。
なぜ記録が残らないかというと、それは日頃の生活というのは、その当時を生きる人にとって当たり前のことだからです。
あまりに当たり前すぎることはなかなか記録には残りません。
さて、仏教に話を戻すと、釈尊は死後の世界を説いていないと言いますが、それは逆に言えば死者を弔うことは当時の人にとって当たり前のことであったからだとも思うのです。
誰もが当たり前に亡くなった人に対して弔う感情を持ち得ていたから、釈尊はあえて死後の世界を説く必要もなかったのではないかと。
そう考えると、末法の時代というのを改めて実感します。
死者を弔うことが当たり前では無くなった時代。まさに末法といえるのではないでしょうか。
当たり前でなくなったのなら、やっぱり言っていかないといけない、大事さを伝えていかなければいけないと思います。
釈尊に言説がなかったなどという言い訳はできません。
それだけ生きてる人にとって、死は重要なことだからです。
大聖人仰せに曰く、
まずは臨終のことを習って
です。
今、とある小学校では、大きな声で挨拶をすると感染症対策にならないから控えさせているという話を聞きました。
これで本当に良いのでしょうか。
もちろん感染症対策を行わなければならないのは分かります。
とはいえ、マスクを着用している状態であるなら、相手に伝わる声で挨拶することはそれほど問題であるとは思えません。
これは今の世相では行きすぎた発言であるのかもしれませんが、コロナ禍が長くなってきている中で、子どもたちを育むということがどんどん後回しにされている気がしてなりません。
子どもを育むということは後回しにしていいほど悠長なことを言えるものではないと思います。
何か物事を説明するときにたとえ話をすると伝わりやすいことがあります。
でもそのたとえ話が上手でないと相手を逆に混乱させてしまうこともあります。
たとえ話が上手な人の話を聞くと、とても分かりやすいのでいつもうらやましく思いますが、
自分ではなかなかできません。
法華経は譬喩の教えともいわれますが、特に前半迹門では多く譬喩が説かれます。
あまりにも譬喩が多いですから、一読すると大した教えではないと思う人が昔から結構いたそうです。
(私にはどんな教えも難しく感じますが…)
しかし、譬喩の意味を悟ると法華経の深遠な教えに気づき、法華経がいかに偉大かであるかを
身にしみて思うといいます。
譬喩は、上手に譬えることと、またその譬喩の真意を上手に受け止める、
この両方が大切だと思います。
仏様の譬喩が上手か下手かを論じるのはあまりにも愚かですから、
受け止める側が譬喩の真意を探る努力は欠かせません。
その姿勢にたって譬喩を拝すると、どんどんと気付くことが見えてきます。
現代は短い言葉で簡潔に伝えることが優先されます。
それゆえ、一見伝わりにくく、学びの必要なたとえ話はあまり必要とされないのかもしれません。
しかし、もう少し意味を考え、長い時間思いを巡らすようなコミュニケーションもあってよいのではないかと思います。
今日は久しぶりに雨となりました。
恵みの雨となって、早速新緑も活き活きとしているようです。
もちろん雑草も活き活きです。
雨と言えば、「雨に唄えば」ではなくて、
私たちには三草二木の譬です。
同じ雨でも、草木それぞれによって、雨から得た果報は異なるという譬喩です。
雨は一つ。
果報はそれぞれ。
教えは一つ。
でも受け止め方はそれぞれ。
仏様が私たち凡夫にたいして教えを説くにあたって、
私たちがいろいろなものだから、受け止め方もそれぞれになってしまう。
「それでもいいよ」
と言って下さっているのか、
「それではだめなんだけどね…」
と言って下さっているのか。
なるべくなら、自分の心を素直にして、
雨をそのままに身に受けたいと願うばかりです。
この時期は門出を迎える方が多くいらっしゃいます。
お寺は有り難いことに、多くの新しい命に出会い、
命が育まれていく様子を拝見することができます。
小さかった子どもが大きく立派になっていく姿、
思い悩みながらも自分と向き合う姿、
挫折を味わいながらも、反抗を繰り返しながら成長していく姿。
そして、時に門出を迎えます。
その時は本当に嬉しくて、でも何だかとても寂しくも感じます。
とても寂しいけど、本当に心から嬉しいです。
皆様の前途が素晴らしいものであることをお祈りしています。
生まれること、老いること、病になること、死を迎えること。
四苦です。
これを苦しみだと発見することがどれだけすごいことなのかを考えます。
そんなの当たり前では無いかと思われるかもしれませんが、
私たちは生老病死が苦しいことだよと教えてもらっているから「苦」だと分かるのです。
教えてもらっていない人で、これを「苦」だと明確に気付くことができる人はどれくらいいるのでしょうか。
また、私たちは「苦」であると教えてもらっていますが、本当に「苦」として認識できているでしょうか。
どこかで遠い話だと、どこかで自分とは関係の無い事だと思ってはいないでしょうか…。
四苦というものを深めていくと、人間の愚かさがにじみ出てくるようで恐ろしく感じます。
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