本日も春季彼岸会法要を奉修しました。
あいにくの雨模様の中、皆様には御参詣をいただき誠にありがとうございました。
謹んで各家先祖諸精霊の追善回向を申し上げさせていただきました。
法話ではコロナ禍を通して学んだこと、感じたこと、考えたことについてお話しをしました。
約3年の月日が流れたわけですが、私たちの生活スタイルは変化し、また終息に向かう中で変化をどのようにしていくのか。
一度変化したものをまた変化させていくとうのは大変なことだと感じています。
コロナ禍によって、いろいろな問題が浮き彫りになり、ある意味一人一人の人生を捉え直す機会にもなったのではないでしょうか。
コロナ禍を通して気付いたこと、感じたことは宝だと思います。
その宝をコロナ禍が終ったからといってすっかり忘れてしまったのではもったいないと思います。
この先、コロナ禍が終息するしないに関わらず、また同じようなことも起こるであろうし、もっとひどくつらいことも怒るかもしれません。
ぜひ、今一度自分たちにとって大切なものは何であろうかを考えていただければと思います。
今日は朝は冷え込みましたが昼間にかけてとても良い天気になりました。
以前もご紹介したことがあると思いますが、堆肥箱づくりをしました。
堆肥箱なんてえらそうな言い方をしていますが、単純に雑草を入れて置く箱です。
満杯になると、切り返しを行います。

二段になっているので、上の段を別の場所に置いて移していきます。
すると一段目はだいたい土になっているので、花壇などの堆肥にします。
なんども言いますが雑草が土になっただけですので、立派な堆肥ではありませんが、できた土はとてもふかふかになります。
ちなみに三箇所ほどこういった堆肥箱を作っていますが、夏が近づくとすぐにいっぱいになります…。
本日は春季彼岸会法要を奉修いたしました。
暑さ寒さも彼岸までと申しますが、本当にそのこと実感するような彼岸までの日々であったように感じます。
本日も朝が冷え込みましたが、大勢の皆様に御参詣いただき誠にありがたく思う次第です。
御参詣の皆様と共に謹んで先祖諸精霊の御回向を申し上げさせていただきました。
これから彼岸の法要が続きますが、よろしくお願いいたします。
彼岸は私たちが住むこの此岸(しがん)から成仏を志す意義があります。
また彼岸は季節の変わり目でもあります。
こういった時期に心身ともに整えていく大事な期間としていただければ幸いです。
何気なく「布教する」の英訳を調べていたら、
propagate
であるそうです。
もっと強い意味では、
proselytize
もあるそうです。ただこれは意味合いが強すぎて、あまり良い印象を与えないそうです。
propagateというとpropagandaという言葉を思い浮かべるのですが、語源は同じものであるようです。
他にもいくつ表現はあるようですが、微妙にニュアンスが違うので、どのような表現を使うかを慎重に選んでいかなければいけないと感じています。
辞書にある意味だけでなく、時代性や使われている環境によっても変わってくるからです。
一昨日の投稿(http://hou-gen-ji.com/?p=3352)の中で書きましたが、いろいろな宗教を学んでやってみようというのは、それだけの意欲があってすごいことだと思います。
ところが、いろいろなものをかいつまんで来た結果、本人の考えが混乱してしまったり、自らの思いに歯止めがきかなくなってしまうことがあります。
とくに歯止めがきかなくなるのは怖いことで、ときに周りの声も耳に入らなくなってしまいます。
伝統仏教という枠組みで語るのはよろしくないかもしれませんが、それなりに多くの年月を経てきた信仰は、そういった歯止めがきかなくならないような教えが教義の中に内包されています。
それが行き過ぎた信仰観に良い意味でブレーキをかけ、健全に信心に励むことができるようにしてくれます。
一見矛盾した教義があったとしても、それが相互作用して、健全な信心を育んでいくわけです。
そう考えると、年月には年月の良さがあり、そういったところから学ぶことも多いと思うわけです。
以前にここで書いたかも知れませんが、少し思い出したので書いておこうと思います。
未病という考え方があります。
以前どこかのコマーシャルでも有名になった言葉です。
病気になる以前の体のサインに気付きましょう。
病気になる前にできることをしましょう。
そういった考え方です。
とても大切な考え方だと思います。
これは信心にも当てはまると思います。
最近の信心に対する考え方は病気に対する治療というスタンスと似ていると思います。
困ったときの神頼み。
でも本来の信心は未病の考え方に近くて、日頃の信心で、少しずつ自分を整えていくという方が信心の持つ力を発揮できるのではないかと感じています。
そういう意味でも日常の中の信心を大切にしていくことを声かけしていかなければと思います。
お彼岸の準備と法華経のはなしの動画を準備しているのですが、法華経を拝読していくとやっぱり受持の重要性に気付きます。
次回話していく五種法師にしても受持は第一番目で、他の四つからすると受持は正行にあたります。
以前の動画でも受持は英訳するとrememberであるといいましたが、受け持ち忘れない、このことが信心をしていく上でどれだけ大事なことかがこの法華経では繰り返し説かれていくわけです。
受持は理解を越えたところにある境地なので、信心をしていない人からするとなかなかわかりにくいあり方だと思います。
またまとめて書きたいとも思っているのですが、よくいろいろな宗教を学んで、それで一番良いと思うものをやっていきたいという方がいらっしゃいます。
大変な心がけであり、到底自分ではできないことだなと感じる一方、やっぱりそういう考え方では受持ではないわけです。
そのことを先ほどのような「いろいろなことを学んでから…」と言う人も何となく分かっていて、いろいろなものを見て選んでいる内はそれは学問の範疇で、信心とはいえないということを思っているようです。
では、その境界線がどこにあるのかというと、それが受持だと思います。
学問していくことで知識は増え、理解は深まっていく、でもそれだけではいけない。
そうやって深めていったものが、時に自分の人生の支えとなっている、指針となっているそういったことに気付くとき、はじめて信心としてのあり方が見えてくると思います。
そして、そのあり方が見えてきたときに、やはり受持していくこと、受け持ち忘れないことがいかに大切であるかに気付くのです。
法華経は理解に傾きすぎることに警鐘を鳴らします。
それは、理解を語るだけでなかなか受持へと向っていかない人が本当に多くいうるからではないでしょうか。
そして、そういった人が持つ性質は、いつの時代も変わらないものなのであるのかもしれません。
本日は、御報恩御講を奉修しました。
暖かいを通り過ぎて暑い!くらいの気候の中、謹んで宗祖日蓮大聖人様の御報恩を懇ろに申し上げました。
法話は撰時抄についてお話しをしました。
10回にわたって話をしてきましたが、撰時抄は大変に長い御書なので、多くの部分を割愛することになりました。
本来であれば一つ一つ細かくお話しをしていきたいところですが、まずは全体の流れをつかんでいただきたいとおもった次第です。
撰時抄は、字のごとく「時」に焦点が当てられた御書です。
今が何の時なのか。
今は何をするべき時なのか。
たとえば、朝にこんばんはでは意味をなしません。
言葉も時を選んで使わなければ意味をなさないのです。
人は意外とこのような当たり前の事を忘れています。
仏法の視点からあらためて時を見つめ直した本抄には、時代を正確に見つめていた大聖人様の眼光の鋭さを感じます。
とくに、仏法を乱す者は誰なのかという視点は学ぶべきところが多くあります。
是非今一度御拝読してみてください。
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