雑記

悲しいことを受け止めるのはとても難しいことです。

その難しさを理解してもらうこともとても難しいです。

悲しいことなど自分には起こらないと思っていますし、現代人は悲しいことを避けて生きるようになっていると思います。

その一つには、異様なまでのポジティブ圧力で、「いつも前向きでいよう」「自分をアップデートしよう」という意識が強くなりすぎ、「悲しむこと」が停滞、あるいは敗北のように捉えられてしまっているのではないでしょうか。

悲しいことを受け止めることは人間にとってとても大事なことです。

そして、この世の中には残念ながら悲しいことが必ずあります。

そのことを若いときから知ってもらう、悲しいことを受け止めることが難しい事を知ってもらう、そのためにも様々な世代に対して信仰を説いていくことが必要だと思っています。

興師会

本日は興師会を奉修しました。

興師会は第二祖日興上人へ御報恩謝徳申し上げる法要です。

御参詣の皆様と謹んで読経唱題申し上げ、ねんごろに御報恩謝徳を申し上げました。

寒い中、御参詣頂き誠にありがとうございました。

日興上人は厳格な方であったと伝わります。

厳しさこそ優しさであることとを体現されて方であったと思います。

この興師会を迎えると日頃緩んでいる自分を反省します。

厳格であられた、弟子檀越のために厳格な立場をとられた日興上人を思いますと、私たちが身を慎んで信仰生活に励まなければいけないと改めて思うからです。

緩慢な自分を反省し、精進をお誓い申し上げました。

法要終了後は御参詣の皆様と芹がゆをいただきました。

日興上人が好物であったとされる芹です。

素朴な味に、当時を偲ぶことができました。

雑記

最近、いろいろなところで孤独が身心共に害となることを聞くようになりました。

人間関係が希薄になった世の中だからということは、もう何十年も聞いてきたことのように思いますが、その希薄さが身心の健康にも影響するということです。

考えてみれば当たり前の事で、人間はもともと力も弱く、集団でいることで生命を維持してきました。

科学技術が発展したといえ、人間のある意味での弱さは変わらないわけで、孤立化すれば不安定化するのは目に見えています。

若い人が人付き合いが悪いと言うようなことを言いますが、実際は年配の方の孤立も目に見えて増えていますし、孤独死の問題は全年代に当てはまるということもいわれています。

四苦八苦には、怨憎会苦とあって、嫌いな人に会う苦しみというのは含まれていますが、いつの時代も人間関係は難しいものだと思います。

でも今の時代は、その難しさを、科学技術を使ってさらに小難しくしているようにも感じます。

虫と蟲とムシ

下記の本を教えてもらいました。

虫と蟲とムシ 松橋利光著

https://www.graphicsha.co.jp/detail.html?p=31166

読みは同じ

むし

ですが、なるほどこんなに違うんだと驚きます。

いろいろな虫をアップで見ることができるので、気付かない姿もよくわかります。

また、分類の難しさもよくわかり、生物の不思議さも感じます。

こういう本を手に取るとインターネットではなかなか表現できない本の良さを感じます。

御書素読

本日は御書素読を行いました。

引き続き種種御振舞御書を拝読しています。

今回は、塚原問答の場面を拝読していきました。

騒ぐ群衆に対して冷静に対処される大聖人様の肝の据わり方に大変驚きます。

また、気になったのは、


塚原と云ふ所に只一人あり。いかにがうなりとも、力つよくとも、人なき処なれば集まりていころせかし、と云ふものもありけり。

と仰せのところです。

ここは、大聖人様を迫害しようとする人々の目線で語られているのですが、大聖人様のことを、

いかにがうなりとも、力つよくとも

と見ていることがわかります。やはり、大聖人様は体躯も優れたお方であったのであろうと想像しています。

昭々乎と牢々乎

明治から大正にかけてくらいの文章を読んでいて、上記の言葉がでてきました。

昭々乎は

しょうしょうこ

と読んで、意味としては、道理や物事が明るく照り輝いているように、きわめて明白で隠れようがないさま、です。

渋沢栄一が著書の中で使っていたようですが、当時よく使われた表現なのかも知れません。

もう一つ、牢々乎は

ろうろうこ

と読み、正しくは「牢乎(ろうこ)」または「牢乎たる(ろうこたる)」という表記で使われることが多い言葉で、意味は、かたくしっかりしていて、動じないさま。ゆるぎない様子になります。

どちらも現在ではあまり見ることのない言葉ですし、大聖人様の御書中にも見当たりません。

時代によって使われる言葉は変化するのですね。

お言葉

御経日ならびに節分会

本日は、御経日ならびに節分会を奉修しました。

御参詣の皆様と共に、先祖諸精霊の追善回向を申し上げるとともに、節分会の御祈念を申し上げることができました。

皆様には寒い中深信に御参詣誠にありがとうございました。

皆様に「福は内」と豆をまいていただき、和気藹々と豆を拾うことができました。

ご挨拶では鬼子母神についてお話しをしました。

鬼子母神は十羅刹女をはじめとする500、または1000、一万の鬼の母親とされます。

人の子を喰う鬼で、子どもをさらわれて困っていた街の人々が釈尊に相談します。

釈尊は、鬼子母神の末の子を隠します。

街の人々はそんなことをしても鬼子母神にはたくさん子どもがいるからと思っていましたが、鬼子母神は狂ったように末の子を探し始めます。

そして、7日間探し回り、それでも見つけることができなかった鬼子母神は、釈尊に助けを求めます。

そこで、釈尊は、隠していた子どもを鬼子母神に返し、自分の子がいなくなって悲しいのなら、他人の子もさらってはいけないと訓戒します。

この訓戒をよく聞き入れ、鬼子母神は善神になったと伝わります。

こんな当たり前の話と思うかもしれませんが、私たちも他人にされたことは覚えているのに、自分がしたことは覚えていないということがあります。

いじめの問題などがそうです。

被害者は心の傷として深く思い悩むのに対して、加害者はそもそもいじめた記憶すら無いということがあります。

決して鬼子母神のことを他人事と思ってはいけないという訓戒です。

今日の朝はとても月が綺麗でした。

寺院清掃

本日は寺院清掃を行いました。

日差しも暖かく、風もあまり吹かなかったので、気持ちよく掃除ができました。

ご尽力頂き誠にありがとうございました。

お茶を飲みながら、映画の話などができたのですが、その中で大聖人様の御尊顔についても話ができました。

今に伝わる御影はどれもとてもはっきりされたお顔をされていますし、伝承ではかなり大柄であったとも伝わりますから、仏教的な大丈夫なお方だったのでしょう。

想像しながらお話しするだけで大盛り上がりでした。

雑記

ちょっと聞いた話なのですが、ある会社で若い子に注意をしているときに、その子は先輩の注意をスマホを見ながら聞いていたそうです。

話をしてるときにはスマホを見るもんじゃない

と注意したら、その子はポカンとしていたそうです。

なんでポカンとしているのかを聞いたら、

スマホを見ながら話を聞いてはいけないと言われたことがなかった

と言ったそうです。

その子は社会人生活を始めるまで、そういった注意をしてもらったことがなかったんだと思います。

ある意味可哀想だ

とその方は仰ってました。

確かに、必要な注意は必要なときにちゃんと受けとくべきなんだなと思います。