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法話 陰の努力

現在、寺院参詣が叶わない状況や、
法話ができない環境となっておりますので、
ここに今までに行った法話のダイジェストを掲載します。

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正直者は馬鹿を見る?

今日は、「陰徳あれば陽報」ありというお話をさせていただきたいと思います。
陰に積む徳あれば、必ず陽なたにおいて果報を得る。
という教えです。
最近は、
「そんなわけはない」
「正直者がバカを見る」
「良いことをしていても、なにも良いことが巡ってこない」
などと、思ってしまいかねない時代になってしまいました。

果たして本当に正直者が馬鹿を見るのでしょうか?
私はそうではないと思います。
今のような、混迷の時代こそ、「陰徳あれば陽報あり」の精神が
大切なのではないでしょうか。

なぜなら、この陰徳あれば陽報ありという教えは、
様々な時代を超えて言い伝えられてきた言葉だからです。
今以上に困難な時代、苦しい生活の中で教訓とされてきた教えです。
ですから、今を生きる私たちの指針にも、必ずなると思うのです。

それでは、この陰徳あれば陽報ありというのは具体的にどういうあり方をいうのか。
それをよく物語った話が、落語の中で出てきます。
「帯久」というお話です。
この話は、もともと上方のものであったのですが、
後に江戸でも落語として披露されるようになりました。
岡山の人はどちらかというと文化的には江戸に近いものがあるといいますので、
今日はその江戸版の方から少し長いですがお話します。

帯久(おびきゅう)

日本橋本町三丁目に呉服屋和泉屋与兵衛が住んでいた。
この和泉屋は根がマジメで日頃の行いもとても良かった。
誰に対しても優しく慈悲深く接する人だった。
そのおかげで商売繁盛していた。

一方、 隣町本町二丁目に帯屋久七が住んでいた。
この人は、箸にも棒にもかからないという人間で、
帯屋のことをよく言うものはなく、街であっても挨拶もしない。
そのせいで、世間では”売れず屋”と呼ばれていた。

帯屋久七は資金繰りに困ったか、
ある年の3月頃に和泉屋与兵衛の所に金の無心に来て、20両の金を借りた。
与兵衛は根っからのお人好しなので証文無しで期限も定めずに貸したが、
久七は20日程しないのにきちんと完済してきた。
さらに、久七は5月には30両、7月には50両、9月には70両、
と借りにきたが、やはり20日ほどで返した。
そして、11月にはとうとう100両貸した。
ところが、今までとは違って、その月には返済がなかった。
月が変わって12月大晦日、てんやわんやの忙しさの時に、久七は返済にきた。
与兵衛は久七を奥の間に通すが、番頭に声をかけられ、
久七と100両を残したまま、与兵衛は出掛けてしまった。
用事をすませて帰ってみると、帯屋はいない。
100両もなかった。
探してもない。
帯屋は100両を返済せずに持ち帰ったのだ。

与兵衛は店中探したが当然無かった。
今更誰かをせめても仕方ないと和泉屋は自分の所でおさめることにした。
ところが、これが不運のつきはじめか、
年が明けると和泉屋は一人娘と妻を相次いで亡くす。
さらには、享保6年12月10日、神田三河町から出た大火事で呉服屋も全焼。
全てを無くし気力を無くして、与兵衛は床につくようになった。

対する帯屋は、100両を元手に大繁盛。

人生とは儚いものです。
これでは「陰徳あれば陽報あり」とは正反対の話ではないか。
いやいやまだまだ話には続きがあります。

与兵衛の番頭をしていた武兵衛が分家をして和泉屋と名乗っていたが、
こちらも落ちぶれて日雇いになっていた。
それでも主人(与兵衛)を引き取って介抱し、アッという間に10年の月日が
経ってしまった。与兵衛は還暦を迎えていた。

与兵衛は世話になった番頭の武兵衛に店を持たせてあげたいと思い、
帯屋久七に出店の資金を借りに行く。
ところが、久七は、昔自分が困ったときに与兵衛がいろいろと世話をしてくれた恩を忘れ、
悪態を付いて、与兵衛の頭をぶん殴り、店先に放り出してしまった。

与兵衛は帰る意欲もなくして、帯屋の裏に回ると久七は離れを普請(建築)していた。
そのカンナっくずにキセルを叩いた火玉が燃え移り煙が上がった。
火事は大事にならなかったが、与兵衛は放火の罪で町方に捕まってしまう。

町方の役人は篤志家の与兵衛のことを良く知っており、
窮状に同情、不問にした上、1両の金をみんなで出し合って家に返してやった。

これを聞いて怒り狂った久七は、今回のことで以前自分がくすねた100両の一件が
露見しては困ると思い、火付けの罪で与兵衛を改めて訴えた。

大岡越前守はそれぞれの様子から全てを見抜いたが、
現行犯でもあり、火付けの罪は重いので、
与兵衛を免罪するわけにはいかなかった。
結果、大岡越前守は与兵衛に火あぶりの刑を申し渡す。

次に、大岡越前守は久七に、10年前のことを正すために、
「100両を返しに来たが主人が出掛けたので、
間違いがあってはと持ち帰ったのを忘れたのではないか」
と優しく尋ねる。ところが、久七があくまでも白を切るので、
人指し指と中指を結び、
「これは忘れたものを思い出すおまじないだ。勝手に解いてはならんぞ。
解いたら死罪、家財没収。」
と言い渡した。

久七は指が使えないのでにぎり飯しか食えず、眠れず、
とうとう3日目には、
「確かに持ち帰って、忘れていました」
と白状した。

そこで、大岡越前守は100両をその場で返すことを命じる。
また、さらに利子として、年に15両、10年で150両を支払うよう命じる。
久七は100両は棚上げし50両だけをケチって年賦として毎年1両ずつ返却する
約束し、証文を作る。
これで損はないとほくそ笑む久七。

これを受けて、大岡越前守は次のようにいう。
「火付けの与兵衛には火あぶりの刑の判決であるが、
ただし50両の残金を全て受け取ってからの執行」
(刑の執行は50年後)
とのお裁き。

驚いた帯久がそれなら今50両出すと言ったが、
大岡越前守にどなりつけられ渋々納得する。

「与兵衛、その方何歳になる?」

「六十一でございます」

「還暦か・・・めでたいの~」

「還暦の祝いにこのうえない見事なお裁き、有り難うございます」

「見事と言うほどではないのだ、
相手が帯屋だから少々きつめに締め上げておいた」。

(参考サイト http://ginjo.fc2web.com/117obikyuu/obikyuu.htm)

徳を積む

和泉屋が行った火付けというのは悪いことです。
社会的に制裁を受けても仕方ありません。
しかし最後に皆が手を差し伸べてくれたのは、
やはり与兵衛が日頃から徳を積み重ねる生き方をしていたからです。

こういうことは私たちも生きていればよくあることです。
自分で失敗したり、
他人の不運に巻き込まれたり、
病気になったり、
いろいろなことがあります。
そして、誰しも
「なんで自分ばかりこんなつらい目に合うのか」
と思う。また、
「こんなことになるなら、まじめに生きても仕方ない」
と思うかもしれません。
しかし、そうではない。
人生いろいろなことがあっても、最後のところや肝心な時には、
やはり日頃積み重ねたきたものが自分を守ってくれるのです。

大聖人様の檀越に四条金吾という方がおられます。
四条金吾は自分の信仰を、なかなか上司や仲間に理解をしてもらえなかった。
しかし、長年の奉公と、日々の信心のおかげで活路を見いだしていかれました。
その四条金吾に、
「陰徳あれば陽報ありである。あなたの心が正直で、
主君を思う気持ちに間違いがない日々を送っていたから、
このような良い果報を得ることができたのだよ」
と暖かいお言葉をかけられているのです。

まとめ

今日は、陰徳あれば陽報ありということについてお話をしました。

まとめますと、
〇どんなにまじめに生きていても試練はやってくること。
〇その試練を乗り越えるのは日頃の積み重ねである。
〇信心においても、 日々積み重ねることで、
困難に目の前にしても乗り越える力を与えてくれる。
〇目の前にしてからあたふたしてもしかたないのだから、
日頃から信心に励み、心身共に整えていくようにしてほしい。
というお話でした。

暑い日々です。どうぞお体を大切にして下さい。

本日の法話をこれまでと致します。

ご清聴誠にありがとうございました。

合掌(平成25年 盂蘭盆会法要にて)

コロナがこわい

勝手に子ども相談室、二回目です。
実際のラジオ相談室でもありましたが、
お寺にも寄せられた質問でしたので、
ここに掲載します。

今日は どんな しつもんかな?

コロナが こわいです。

どんなふうに こわい?

びょうきになったら いやだし、かんがえると すごく こわい。

そうだね。
大人もとってもこわいです。

おとなも?

うん、こわい。
では、なんで こわいと思うのかな?

うーん、わからない。

そう、わからない。
こわいってことは わからないってことなんだよ。

わからないってこと?

うん。
人は わからないことがあると こわいんだ。
今 コロナのことで わからないことが いっぱいある。
だから みんな こわいんです。
いつ びょうきになるか わからないし、
いつまで 今のようなせいかつをしなければならないかも
わからない。
おばけは こわい?

こわい。
お坊さんは こわい?

こわくないよ。
でも おばけがでてくる えいがとかは こわいね。
すごく おどろかそうとするから…。
はなしをもどすと おばけも よくわからないものだから 
こわいとかんじる人がおおいです。
それと同じで コロナのことも まだまだよくわからないことが
いっぱいあるから とても こわくかんじるんだね。
ところで、わからないということは わるいことかな?

わるいことだと思う。

そうかな?
わるいことでもないんだよ。
なぜなら、せかいには まだまだわからないことがいっぱいあるからね。
きみも きっと わかることより わからないことのほうが おおい。

うん。

だから、わからないということは けっして わるいことではないんだよ。
ほとけさまは そのわからないというじょうたいと 「むみょう」であると
おしえてくれています。
そして わるいことは 「むみょう」であるのに「むみょう」でないふりをすること、
つまり、わからないのに わかっているふりを することだと おっしゃっています。

わかったふりをしてはいけないってこと?

そうだね。
そして、わからないということが わるくないのだから、
こわいってことも わるくないことなんだよ。

こわいってわるくないの?
でもいやだ。

わるくないよ。
こわいとおもうから 気をつけようとおもうからね。
こわくないっておもう人は気をつけない。
今コロナのじょうきょうをかんがえると 
気をつけないほうが よくないからね。
ただ ずっとこわいと 思っているのは いやだね。

いやだ。でも わからないから テレビとかインターネットとかをみて
べんきょうしたほうが よいの?

よくテレビのニュースはみているの?

みてる。

それなら、お父さんとお母さんに そうだんして あまりテレビをみないように
したほうがよいと わたしは 思います。

みないほうがよい?

みないほうがよい、というわけではないけれど、たくさんみるひつようは
ないと思います。
なぜなら、さっきもいったけど コロナについて みんなまだまだわからないこと
だらけなんです。
わかっていることは
1,しっかり手洗いうがいをしましょう
2,「3みつ」をさけましょう
とかだけなんです。だから、たくさんテレビをみても わかるようになることは
あんまりないと思うし、かえって こわい話ばかりで いやになってしまうと
思います。

うん。

ですから、いやだなと思うくらいなら、みなくて よいと思うので、
お父さんお母さんに 相談してみてください。

はい。

それから、こわいなと思ったときは 手をあわせましょう。
手をあわせるだけで ホッとすると思います。

びょうきになりませんようにって いのればいい?

それもいいね。
いろいろ思うこと、かんがえることを いのってくれればよいと思います。
ただ、最後にかならず、
「みんなが げんきで しあわせに すごすことが できますように」
っていのってください。

みんなを?

そう、みんなを。
じぶんだけではなく、みんなのことをいのってください。
そうすれば こわいと思っているきもちも 
きっと すくなくなっていくと 思います。
いいかな?

はい。

今日はしつもんをしてくれて どうもありがとう。

ありがとうございました。

さようなら。

さようなら。



がまん

いきなり、勝手に「子ども仏教相談室」!!!
っということで某ラジオを参考(そのまんま…)に、
今まで質問を受けた子どもからの疑問に、
これまた勝手に答えます。では、早速。

今日の質問は何かな?

なんで がまんを しなければいけないのですか?

どうしてそんなことを思ったの?

おとうさんに いつも がまんをしなさいって言われるから。

どんなことを我慢しているの?

ほしいものがあるけど、かってもらえなかったり、
テレビをずっとみていたいけど、みるなっていわれたり。

なるほど。我慢するのは嫌?

うん、いや。

私も嫌だな。

いやなの?

うん、すごく嫌だね。欲しいものは買いたいし、テレビだってずっと見ていたい。

そうなんだ。おとなでも がまんはいやなんだね。

お父さんもお母さんも、きっと嫌だと思うよ。でも我慢をしているんだね。

みんながまんをしているの?

そうだね、少なからず我慢をしていると思う。
先に結論、答えを言うと、みんな我慢をしているし、少なからず嫌だと思っているけど、
我慢をするのが上手な人と下手な人がいると思うね。

じょうず?へた?

そうだね。
まず、仏様は、今私たちが住んでいる世界を娑婆(しゃば)世界だと仰っている。
この娑婆世界は「忍」の世界だというんだよ。

にん?

そう、「忍」。

にんじゃの にん?

そう、よく知っているね。忍者の忍だよ。にんにん。

うん。

忍というのは、実は、耐え忍ぶということで、
この世界は我慢をしなければいけないということなんだ。

なんで?

この世の中には、たくさんの人が生きているでしょ。
たくさんの人が、あれをしたい、これをしたい、あれが欲しい、これが欲しいと
思っている。
そのたくさんの人が他の人のことを思いやる気持ちを持っているわけではない。
だから、自分の欲しいが他の人とぶつかっちゃうんだ。
では、ぶつかっちゃうとどうなる?

けんかになる?

そうだね。すぐにはケンカにはならないかもしれなけれど、
みんなで楽しく生きていくことは難しくなってしまうね。
だから、我慢が必要なんだよ。
もちろん誰か一人ではなくて、みんなが少しずつ我慢しなければいけない。

みんなで?

そうだね。お父さんもお母さんも、我慢しなさいって言うかもしれないけれど、
お父さんもお母さんもきっとたくさん我慢しているんだよ。

そうか。

それで大事なことは、さっきも言ったけれど、
上手に我慢することだね。

じょうずに?

うん。実は、仏様は能忍(のうにん)とも呼ばれるんだよ。
これはよく耐え忍ぶことができるお方という意味。
つまり上手に我慢ができるということだね。

どうやってじょうずにがまんをするの?

そうだね。考えることが大事だね。
本当にそれがしたい?本当にこれが欲しい?

それだけ?

そう、それだけ。上手な人は、上手に考えることができるんだよ。
どうしてもしたい、どうしても欲しいと思うなら、すればいいし、欲しいと言えばいい。
でも考えて、どうしてもしたいわけではない、本当に欲しいわけではないって思えたら、
しなければいい、欲しがる必要もないでしょ。
少し考えることが大事。
そうするとそのうちに上手に我慢ができるようになってくるよ。

すぐにできなくてもいいの?

もちろん!大人だって難しいんだから、子どものうちはできなくて当たり前。
少しずつ練習していけばいいんだよ。

わかった。

うん、今日は質問してくれてありがとう。

ありがとうございました。

さようなら。

さようなら。



雑記

今年の梅雨は本当に雨が多いようで、とても久しぶりのことと感じます。
もちろん猛暑も困るので、涼しいのは嬉しいのですが、
冷夏となるとこれも困る。
「よく降りますねー」
というのが出会った人との挨拶になっています。

嫌な事件が続きます。
陰鬱な気分になり、どうしようもない無念さを感じています。
同じような思いの方から電話がかかってきます。
言葉少なく、今の思いを語りあい、共に手を合わせようと励まします。

こんな事件、二度と起きないでほしいと、何度思えばよいのでしょうか。


コラム「ともに学ぶ」

先日、法事の後、願主のご親族とお話していると次のようなことを
質問されました。

「子どもが勉強しません。何度言っても聞きません。
どうしたら良いですか?」

これは、とてもむずかしい質問です。
なんせ自分も勉強をしなさいと言われながら、
言うことを聞くなんてことはありませんでした。
なので、子どもの気持ちも分かりますし、
心配する親の気持ちもわかります。

子どもによっては、勉強がそもそも嫌いな子どももいます。
社会に出れば、勉強ができるということが、その人の価値を
すべて決めるわけでもないということもわかります。
そう考えると、勉強が全てというわけではありません。
静かに座って本に向かい合うということが勉強というわけでもありません。

「子どもの個性を」といわれる時代にありながら、
勉強のあり方は未だに無個性なものを子どもに押し付けているようでも
あります。

学習とか教育とか勉強とかいろいろと考えることもありますし、
これからも議論が必要だと思います。

それで、親御さんの質問に何も答えていませんので、
何か答えねばと思いますが、なかなか良い解決策は思いつきません。

ところで、僧侶は師匠から事細かにいろいろと教えてもらえるということは
あまりありません。
それではどうやって学ぶのかといえば、師匠についてまわって、所作振る舞い、
言葉使いなどなどを側にいて学びます。
師匠から、
「修行しなさい!」
と言われて、放ったらかしにされることはありません。
少なくとも私はそうやって教えてもらいました。

子どもが勉強しなさいと言ってもきかない。
それなら、親御さんも勉強したらどうでしょうか?
できれば隣に座って。同じことを勉強しなくても良いと思います。
時間がない、そんな暇はないと言われるかもしれませんが、
大切な子どものためですから。
なんとなくテレビを見ている時間はありませんか?
スマートフォンをダラダラと眺めている時間はありませんか?
そういった時間を調整して、
子どもとできれば一緒に座って勉強してみてはどうでしょうか。
そうすれば、お子様も勉強は押し付けられるだけのものではないということに、
気づいてくれるかもしれません。

共に学ぶということは、教育の醍醐味だと思います。

 

 

コラム「敷居が高い」

お寺って敷居が高い…。良くお聞きします。
ですから気軽にどうぞ~って声をかけても、なかなか入りづらいっていうのが、
一般の方の思いなのだと感じています。

それでも、時折、足を運んでくれたり、道行く人が入ってこられて世間話をしたりします。
お話が盛り上がっちゃって時間を忘れるなんてこともしばしば。

そういうときに感じるのが、お寺ってとても勘違いされているなぁということです。
宗派のこと。お坊さんのこと。信心のことなどなど。そもそものお寺って何ってこと。
ということで、考えさせられることもとても多いです。
もっと気軽に相談をしていただいても良いのになぁって思います。

それでは、具体的にどんな相談を受けることが多いか?
実は世間で起きることはだいたいどんなことでも相談を受けていたりします。

家族のこと。

友人関係のこと。

仕事のこと。

人生のこと。

本当に様々です。
明確な答えを出すことはできないことが多いのですが、まずは、お話をお聞きし、一緒に考え、
例えば専門家を紹介したり、何か解決の足がかりになることを共に見出していくように、
努めています。

それで、だいたい言われるのが、
「こんなことまで聞いてくれると思いませんでした~」
とか、
「なんとなくどうしたら良いかが見えてきました~」
とか。
ときには、お互いに、
「う~ん、難しいね…」
で終わったりもします。。

私は、宗教や信仰に関わらず、
お寺って気軽に参詣して良い場所だと思っています。
少なくとも法眼寺は、そういうお寺です。

敷居は高くありません。
実際うちのお寺はバリアフリーです。(意味が違うかな(笑))

結局この言葉しかないのですが、
どうぞ気軽にご参詣ください!

 

 

さつまいも収穫

初物です。
品種は確かベニアズマだったと思います。

今度、お寺に参詣した子どもたちと一緒に収穫をしたいと思います。

ところで、大聖人様の御書に出てくる「芋一駄」の一駄。
一駄は馬一頭に載せることができる重量のことです。
西洋の馬が入ってくるまでは、日本の馬はロバが少し大きくなったくらいだったそうですから、
それでも、かなりの量を御供養されていたことがわかります。
馬に芋を背負わせ、山を登り、大聖人様のもとへ届けたのでしょうか。
往事が偲ばれます。

豆知識でした。

 

雑記「こどもの日」

今日はこどもの日ですね。
最近は鯉のぼりなどはみかけなくなってきましたが、
それでも、こどもの日と聞いただけでほのぼのとします。

ところで、子育て論というのは人それぞれあって、
それで良いと思うのですが、行き過ぎたものなどを見ると、
どうも気持ちの悪さを感じてしまいます。

先日、どこかの校長が、「〇〇人産むのが…」などと、
言っていたそうですが、教育の立場におられる方なら、
自分の言っていることのおかしさに気づかれなかったのでしょうか。

子育てというのは、もちろん親が主体なのですが、
やはり社会全体で育てていくという意識は大切です。

先の校長も、
「たとえどんな立場にあっても、子どもを育てていくということもは
とても価値のあることなのだ」
と仰っていれば良かったのではないでしょうか。

今ある保育園の問題も、もっと社会の問題として、
社会全体で子育てしていくことを考えれば、子どもたちの声も、
楽しげな音楽として耳に入ってくると思います。

法華経では、仏様が、衆生を我が子のようであると、
ありがたくも仰せ下さっています。
そのような仏を私たちも目指すなら、
少なくとも目の届く範囲の子どもたちには、暖かな視線と手を
差し伸べてあげてほしいと思います。

 

台風一過

皆様台風十一号はいかがでしたでしょうか?

こちらは思った以上に風が強く雨もよく降りました。
夜は風音が強くて寝れないほどでした。

建物境内地などは無事でしたが、畑がやられてしまいました。

IMG_3401

今日はまだ風が強いので、明日朝に状況を確認してみます。
自然の強さは本当にすごいものです。
大切に育てても、一瞬ですね。
農家の方々の大変さを身にしみて感じています。

いずれにしても、皆様無事であることをお祈り申し上げます。

台風をなめたらいけませんね。

 

雑記

本日は題目講でした。

じめじめ暑かったのですが、最高齢90歳の御信徒が
一時間の唱題を見事に勤められました。
もう言葉がありませんでした。

暑苦しいなんて言ってられないですね!

境内の山桃の実が実りました。
しかもたくさん。
少し酸っぱいのですが、とても美味しいです。
散歩途中の方も、つまんで帰られています。

赤い可愛らしい実です。
参詣の折に御覧ください。