今年も蓮が咲きました。

毎年思いますが、この世のものとは思えない美しさがあります。

本日御参詣の方から教えて頂いたのですが、白い蓮の花は食用が多く、色がついているものは観賞用だそうです。

食べるつもりであったわけでは…ありません(笑)
先日、下記のような記事を書いたのですが、
その中で、表記に揺れがあることを述べました。
揺れがあることは、記号としての厳密性に欠け、意味を伝達することが難しくなるので、現代では極力揺れを無くすようになっています。
でも、そのことが表現の幅まで狭くしてしまっているように思います。
現代は分かりませんが、80代、90年代の漢字教育では、とめ、はねが間違えれば、間違いということで、漢字が苦手な子どもが多かったように感じます。
とめ、はねを間違える子が、表現が下手なわけではありません。
厳密性にしばられるあまり、表現の豊かさがうばわれてしまうのは勿体無いょうに思いますし、こういった揺れを許さない風潮は漢字にとどまらず社会全体に蔓延しているように感じます。
こちらの本を読んでいます。
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-7976-7447-7
各界を代表する方達が、死について書いています。
死そのもの、人の死、動物の死、病気の死、死の儀礼、文化…
もちろん死について書くということは生きるを考えることなので、現代の死生観をよく知ることが出来ます。
それにしても、こういう本が改めて出版されるということは、それだけ現代人にとって「死」が縁遠いものになってしまったということでしょうか。
この時期になると平成30年7月豪雨のことが思い返されます。
当時、一週間近く雨が降り続け、その量も今まで経験したものでは無く、大丈夫だろうか、大丈夫だろうかと思っている内に大災害になりました。
ボランティアに入った場所では、自然の破壊力を身心に感じました。
あれから6年が経ち、多くの場所で何とか復興を進めていますが、何となくあの時感じたものは、心の中にしっかり残っているように思います。
多くの失われた命に、謹んで御回向を申し上げるとともに、一つでも教訓として次の世代へ自然災害の恐ろしさを伝えていきたいと思っています。
※昨日のブログがアップできていなかったようなので、先ほど公開しました。
大雨が続いていたかと思うと、ここ数日大変な暑さになっています。
できるだけ夏バテしないようにとは思うのですが、夏バテしがちな性分でもあるので、いろいろとアドバイスをもらって暑さ対策には気を付けています。
ここでいつか共有したいと思います。
適切に使いましょう。やせ我慢をしても何にもならないですし、倒れるようなことがあれば元も子もありません。
「夏バテするからしっかり食べなさい」
と言われてきましたが、夏に食欲が落ちるのは自然なことだそうです。
もともと冬は寒いので体温を上げるためにかなりのカロリーを使います。
一方夏は体温が高い状態ですから、それほどエネルギーを使わない。
なので、食事を取り過ぎると胃腸が弱ってしまうそうです。
人間は消化にものすごいエネルギーを使ってしまうので、食べられないときは無理に食べずに、また少ない量でしっかりと栄養を取れるものを食した方がいいそうです。
暑いので体を冷やすことは必要ですが、一方で内臓が冷えると、体がだるくなるそうです。
以前に90を越えて元気なおじいさんに、健康法は?と聞くと、
「冷たいものは飲んでいません」
と仰っていました。
体の熱が上がっているときは冷たいものを取った方が良いそうですが、もし涼しい部屋で過ごすことができるなら、冷たいものより、少し暖かいものを飲んだ方が良いかもしれません。
夏の日中に眠くなるのは、暑さで体力が落ちてしっているのが原因の一つだと聞きました。
体力を回復するために、睡眠時間を増やした方が良いそうです。
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以上です。
科学的見地に基づいて…というわけではありませんので悪しからず。
とにかく暑い夏は無理をしないようにするのが一番です。
上手に休憩を入れながら過ごしてください。
インターネット、テレビ、書籍などで最近の葬儀のことなどが頻繁に紹介されているように思います。
それだけ、世間において葬儀に関することが不安に思うようになったということかもしれません。
20年くらい前までは、良くも悪くも、葬儀というのはこういうものというのがあって、それに従うしかないというような状況がありました。
こちらとしては、葬儀をするのであれば、こうであってほしい、またこうしておいたほうが良いというものがあります。
とはいえ、それぞれの人が葬儀をこうしたいと思うことを退けて強制するようなものはありません。
ある意味、世間の方が、葬儀に関することを自分で考え決定する時代になったということでしょうか。
納得してされるということであれば、それも決して悪いわけではないと思いますが、ただでされ臨終のときというのは、本人も残される人も身心共に多くの負担を感じます。
自分で決断して自分流の葬儀を行った。でも、後にその葬儀に不安を感じるようなことがあったとしたとき、伝統的な葬儀であればフォローアップも可能だとは思いますが、やはり相当に負担が大きいと思います。
そういうときに儀礼的とはいえ、安心して任せることができるという教えや習俗があるというのは、とても大きな意味を持つと思います。
時代の流れや風潮に惑わされて既存のものを否定せず、冷静な視点で葬儀や法事について考えて欲しいと思います。
あるシンポジウムのような対話を聞いていて思ったことです。
「昔はこうだったと思うのですが…」
「昔はこうだったけど、今は違うようね…」
という、この昔とは
「いつ?」
のことなのか。
70年代は…
とか
80年代頃は…
といわれると具体性がありますが、ただ漠然と「昔は」と言われると余り説得力が無いと感じます。
また、その「昔」なるものを探ってみると、実はそんな昔はなかったり。。
昔に自分の理想を重ね合わせるようなところが結構あります。
こういう場合の「宗教的」というのは理由もなく盲目的に信じるようなことを言うのでしょうが、そういうものは世の中にごまんとあります。
ある企業の製品が好きだから、〇〇信者
とか
科学至上主義も一種の宗教
とか。
宗教的でないものを探す方が難しいと思います。
いぶかしいものが、「宗教的である」と表現されることに違和感を覚えつつも、これが世間の見方であるということを痛感したりします。
今日は、久しぶりの再会がありました。
数年ぶりですが、10代の数年は大人の数年とは違い、本当に変化、成長を感じます。
少しの時間でしたが、お話しができてとても嬉しく思いました。
若い人の目線は、とても鋭く、また本質的なことをしっかりと見ていると感じました。
そして、子どもの頃からの成長を見守ることができて、こんなに有難いことははいなと思います。
若い力に元気をもらった一日でした。
本日は、御経日を奉修しました。
朝から強い雨が降る中、深信の御参詣を賜り本当にありがとうございました。
御参詣の皆様と謹んで先祖諸精霊への追善供養を申し上げました。
法話では高橋入道殿御返事についてお話しをしました。
建治元年頃の大聖人様の御法門が簡潔にまとまった御書であり、弟子檀越たちへの心配りが詰まった御書ですので、是非全文を拝読頂きたいと思います。
高橋六郎入道は、この建治元年末頃に亡くなったとされます。
病に蝕まれる体で、身延の山中にいらっしゃる大聖人様のもとを訪れたことがこのお手紙の中で言及されています。
そして、高橋六郎入道が参詣されたことを大聖人様は大変に有難く思われたことも示されています。
私たちは、そこに行くことで、他者を励ますことができるということを改めて考えさせられる内容です。
コロナの時代にあって、直接会わずともつながる手段は増えたわけですが、それでも、行くことでこそできるつながりもあるのではないかと思います。
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