Monthly Archives: 10月 2017

お花づくり

今年も大勢のご参加をいただき、御会式のお花づくりが行われました。

今年は初参加の方も多くおられました。

和気あいあいとお花づくりは進みましたが、予定の時間よりも遥かに早く終わりました。
参加者もこれにはびっくり。

御会式が待ち遠しく感じます。

いよいよという気分になってきました。

 

 

マナビバ

今日は、マナビバが行われました。
台風が近づき、大雨になるなか、参詣は難しいかなと思っておりましたが、
自転車で参詣された方もおられまして、
座を囲みながら、みんなで学びました。

前回の宿題の答え合わせから始めたのですが、そこで質問がありまして、
「勉強してもなかなか頭に入らない」
とのこと。

よくわかります。
なかなか頭に入ってこないのですよ。
また理解したと思ったら、すぐ忘れてしまったり。

私も、ある御書を詳細に読み解いていこうとしているのですが、
とても単純な事実に気付くのに、一ヶ月近くもかかりました。
その間、毎日毎日解説書と読み比べたり、御書を読み返したりを繰り返しました。
気づいたときには、やったと思っても、冷静になってみれば、
こんなことに一ヶ月も…、自分はなんて愚かなんだ…、
とつくづく思いました。

ということで、人それぞれ理解するペースがあると思います。
ゆっくりみんなで法華経を読み解いて行きましょうと確認し合いました。

皆様台風には十分に気をつけて下さい。

 

コラム「ともに学ぶ」

先日、法事の後、願主のご親族とお話していると次のようなことを
質問されました。

「子どもが勉強しません。何度言っても聞きません。
どうしたら良いですか?」

これは、とてもむずかしい質問です。
なんせ自分も勉強をしなさいと言われながら、
言うことを聞くなんてことはありませんでした。
なので、子どもの気持ちも分かりますし、
心配する親の気持ちもわかります。

子どもによっては、勉強がそもそも嫌いな子どももいます。
社会に出れば、勉強ができるということが、その人の価値を
すべて決めるわけでもないということもわかります。
そう考えると、勉強が全てというわけではありません。
静かに座って本に向かい合うということが勉強というわけでもありません。

「子どもの個性を」といわれる時代にありながら、
勉強のあり方は未だに無個性なものを子どもに押し付けているようでも
あります。

学習とか教育とか勉強とかいろいろと考えることもありますし、
これからも議論が必要だと思います。

それで、親御さんの質問に何も答えていませんので、
何か答えねばと思いますが、なかなか良い解決策は思いつきません。

ところで、僧侶は師匠から事細かにいろいろと教えてもらえるということは
あまりありません。
それではどうやって学ぶのかといえば、師匠についてまわって、所作振る舞い、
言葉使いなどなどを側にいて学びます。
師匠から、
「修行しなさい!」
と言われて、放ったらかしにされることはありません。
少なくとも私はそうやって教えてもらいました。

子どもが勉強しなさいと言ってもきかない。
それなら、親御さんも勉強したらどうでしょうか?
できれば隣に座って。同じことを勉強しなくても良いと思います。
時間がない、そんな暇はないと言われるかもしれませんが、
大切な子どものためですから。
なんとなくテレビを見ている時間はありませんか?
スマートフォンをダラダラと眺めている時間はありませんか?
そういった時間を調整して、
子どもとできれば一緒に座って勉強してみてはどうでしょうか。
そうすれば、お子様も勉強は押し付けられるだけのものではないということに、
気づいてくれるかもしれません。

共に学ぶということは、教育の醍醐味だと思います。

 

 

お言葉54「よく忘れる」

魯の哀公云く「人好く忘るる者有り。移宅に乃ち其の妻を忘れたり」云云。
孔子云く「又好く忘るること此れより甚だしき者有り。桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり」等云云。
『忘持経事』

昔、家を引っ越すときに妻を置き忘れた人がいたらしい。
さらにひどいことに、国王の中には、自分の身を修めることを
忘れて、国を滅ぼした者もいたそうである。

みんな結構忘れる。

魯の哀公云く「人好く忘るる者有り。移宅に乃ち其の妻を忘れたり」云云。
孔子云く「又好く忘るること此れより甚だしき者有り。桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり」等云云。
『忘持経事』

お言葉53「一字は一仏なり」

法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。
『御衣並単衣御書』

私たちが読む法華経の一字一字は、
その文字一つ一つが仏である。
一つを大切にできるからこそ、
無限を享受できる。
大切に拝読して欲しい。

法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。

お言葉52「日々精進」

一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ
『富木殿御書』

自分にとって永遠の時はない。
日々過ぎ去ってゆく。
明日をも知れぬ身。
一生は夢の如し。
志を立てて精進しなさい。

一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ
『富木殿御書』

10月度御報恩御講

昨日、13時より御報恩御講が奉修されました。
宗祖御入滅の月にあたり、参詣者一同、
あらためて御報恩の思いを強くした読経・唱題になりました。
御参詣をいただき誠に有難うございました。

《法話 女性と御書》

御講では、国府尼御前御書をお話しました。
宗祖の様々な弾圧の中で苦しみ、また多くの別れや裏切りを経験する中で、
国府尼のように、深い信心で大聖人様を御護りした檀越がおられました。

そういった檀越に対し、
あえなくて寂しければ、日月を拝せば、そこに日蓮は必ず居るのである、
と仰せになられています。

当時のことを考えれば、佐渡と身延に離れると、大聖人様に直接お会いすることは、
あまりにも難しいことでしょう。

ですが、大聖人様と檀越たちは確かに信心でつながっていたのです。
今を生きる私たちも同じであり、強信であれば、必ず仏様と私たちはつながっています。
何も心配することはありません。

《一言》

先日、ブラジルに送った皆様のメッセージが届きました。
ご協力いただき本当に有難うございました。
ブラジルの信徒の皆様も本当に喜ばれていました。

 

お言葉51「平安なときだからこそ」

賢人は安きに居して危ふきを欲(おも)ひ、佞人は危ふきに居して安きを欲ふ。
『富木殿御書』

人生、予想がつかないばかり。
これから何が起こるかわからない。
とはいえ、冷静になれば、起こり得ることも想像できる。

「備えあれば憂いなし」である。
平安なときこそ、危うきに備えるべきである。

賢人は安きに居して危ふきを欲(おも)ひ、佞人は危ふきに居して安きを欲ふ。
『富木殿御書』

雑記「お月見」

一昨日は、本年の中秋の名月だったようで、
少しの団子とお茶で、お月見をしました。

実は、お月見をしたのは初めて。
だいたい毎年中秋の名月にあたる日は雨か曇りで、
気づいたときには過ぎている、そういった感じでした。

今年は、雲も少なく、月が綺麗に見えました。

改めて月を見ると、まるで生きているようです。

法華経の中では、月は月天子、法華経を受持するものを
守護してくれる善神です。

大聖人様も度々御書で仰せになられています。

暗い夜に照らす月。

もう夜は肌寒いですが、
ぬくもりのある柔らかな姿を見せてくれました。

 

お言葉50「仏様だって…」

仏に九横の大難有り
「法華行者値難事」

仏(釈尊)は九つもの大難を受けたという。
仏に成ったからといって、難を受けないわけではない。

私たちと同じ時、同じ場所にいて、
同じように難を受けても、
それでも慈悲深く導かれている。
それが仏様。

仏様だって、難は受ける。

仏に九横の大難有り
「法華行者値難事」