テレビを見ていたら、障害のある動物を保護する動物園の活動について放送していました。
大変細かな心配りがあってとても感動しました。
人間の場合でも、「障害」は、その人が持っているものではなく、社会がその人に対して不適応であるために、「障害」は存在するとされるそうです。
このことそ聞いたとき、障害に対する考え方が一変しました。
障害は社会が作り出す。
逆に言えば、社会の方から出来ることは、無限にあると思います。
障害のある動物たちに向い合う飼育員の皆さんの姿にその可能性を感じました。
本日は宗旨建亡会を奉修しました。
御参詣誠に有難く思う次第です。
大聖人様は建長五年四二十八日、題目の宗旨を建立あそばされました。
このお題目は大聖人様がはじめて唱えたわけではありません。
宗旨として唱えたお題目であることが重要です。
同じお題目だから誰が唱えても一緒だという意見を聞きます。
同じ薬でも、用法用量が違えば、薬功は違います。
同じお題目でも修行の立て方が違えば、信心の方向性も変わってしまうのです。
宗旨建立会にあたっては、今一度自分の信心を省みて、題目の行が間違った方向に行ってしまっていないかを確認するようにいたしましょう。
本日は寺院清掃でした。
朝早くよりお集まりいただき、堂内や境内の掃除をしていただきました。
皆様本当にありがとうございました。
お陰様で綺麗になりましたことを御本尊様へ御報告申し上げました。
お寺から出たところの街路樹の掃除をしていたところ、ご近所の方がたくさん声をかけてくださいました。
ときに信心の話になったりもして、皆様いろいろなことを思っていらっしゃるんだなと感じます。
信心のことは、いろいろと思うところがあってもなかなか話を聞いてもらうところがありません。
そういった意味でお寺が遠い存在になってしまっていることは悲しいことだと思います。
是非気軽に声をかけていただければと思っています。
「NHKの100分de名著の冊子「わが道」の達人水木しげる」にフランス文学者の中条省平氏が、水木しげる氏と手塚治虫を対比させて、次のように述べていました。
水木的ニヒリズムと手塚的ヒューマニズム。この二つは、戦後日本のマンガにおいて二大潮流をなすものだと僕は思います。
https://www.amazon.co.jp/別冊NHK100分de名著-「わが道」の達人-水木しげる-教養・文化シリーズ-徹宗/dp/4144072908
水木しげる氏はラバウルにて壮絶な戦争体験を経て、世の中を否定も肯定もしないスタイルが作られたと中条氏は考えでます。
両氏ともに大好きなマンガ家ですが、確かに描き出される作品には何か根源的な違いがあると感じていました。
そういう意味でニヒリズムとヒューマニズムで比較する視点はとても興味深く感じました。
宗祖の人間像を探るこに躊躇しますが、宗祖には正反対の見え方が混在しているように感じられて.推しはかることができないといつも思うのです。
本年の春季彼岸会法要の法話をここに掲載いたします。
コロナ禍が始まって約3年でしょうか。気付けば大変な月日が過ぎました。その間、私たちの生活スタイルも随分変化しました。一応、コロナ禍も終息の方向に向かっているとのことですが、一度変化したものをまた戻していくということは大変なことだと感じています。こうやってコロナ禍も終息していく時に当たりまして、もう一度コロナ禍で感じたこと、学んだことをここで振り返っておかなければならないという気持ちになりまして、またそのような中で大聖人様の御書を多く引いて、私たちの励みとしてきましたので、今日はそのことについてお話しをさせていただきたいと思っております。
このコロナ禍は、中国で2019年の12月初旬頃から始まったと言われています。日本で報道されるようになったのは、2019年の年末から2020年の年明け頃ではなかったかと思います。その2月末で小中高の学校が一斉休校になりました。そして、4月には緊急事態宣言が出ました。あの時は緊急事態宣言が出たということでとにかく驚きと不安といろいろなものが入り交じりながら、日々を過ごしていたように思います。
そこから結局ずるずると三年の日々が過ぎたように思います。当初はとにかく未知なるものが相手ですから、目には見えないし、どうしたら良いのかという感じでした。またご不幸も続きましたから、やっぱり誰もが怖かったと思います。ところがすぐに皆さんうっすら気づき始めました。
「怖いのは病気では無い、人間だ」
ということですね。病気よりもよっぽど人間のやることの方が怖かったわけです。そもそも病気にかかるのは誰のせいでもありません。人間がどうこうして何とかなるものであれば、そもそもこんなに流行するわけないんです。もちろん病気にかからないように気を付けることは大事です。でも誰もが病気にかかることだってある。ところがあの人が病気になったと噂したり、悪口や嫌がらせをしたりする。それも半端じゃなかったですね。
そういう中で、皆さん暗い顔をされている方が多くおられたように感じました。そこで、大聖人様の御書から、次のようなお言葉をいただきました。
「つねにめるすがたにておわすべし。」『八幡宮造営事』
この言葉は大聖人様の檀越である池上兄弟が窮地に陥ったときに、
「あなたたちは何も悪いことはしていないのだから、毅然とした態度で、しかし、にこやかに日々を過ごしていなさい」
という御教示です。この御教示をもって考えれば、たしかに病気相手に、また人相手に怒ったり、不平を言ったりしても仕方ないんですね。そのようなことをしても意味も無く、そしてとても疲れてしまいます。ですから、気持ちだけでも明るくにこやかに過ごしていきたいということで、とても支えになったお言葉でした。
一方で寺院としても寺院行事などの活動や法事などをどうやって差配するべきか悩み考えることも多くございました。ただ考えてみれば、こういった難しい状況は今に始まったことではありませんでした。人間関係が希薄になり、宗教離れが叫ばれている状況は、もう何十年も続いています。ですから、気持ちを切り替えて、よし、ちょっといろいろなことをやり直してみようということで、新しく取り組むようなこともでてきました。そういう時に励みになり、また皆様にご紹介したのが、
「仏法を信じて今度生死をはなるる人の、すこし心のゆるなるをすすめむがために、疫病を仏のあたへ給ふ。はげます心なり、すすむる心なり。」『閻浮提中御書』
という御教示です。大聖人様御在世の時代も疫病がなんども流行していました。今の人たちと同じように人々は右往左往していました。現代のように医療も発達していませんから、ちょっとした風邪でも命を失うような時代です。それは右往左往しても仕方がないと思います。そういう状況にあって、この御教示のように、
「仏法を信じて今生に生死の苦しみを離れようとする人が、少し心がゆるんだので、それを正しい道に戻そうとして、仏が疫病を与えられたのであり、これは激励のため、勧誡のためである」
という視点、ものの見方や捉え方は、本当にすごいと思いました。
私たちはコロナ禍を通して制限有る生活をしなければならなくなりました。外食ができないとか旅行ができないとか、人との交流ができない、そういう状況になりました。それは大変なストレスで、病気にかからないまでも体調を崩してしまうような方が多くいらっしゃったようです。
でも、考えてみればいつでも外食できる、旅行ができる、人とも会えるというほうが本当は稀なことであったんではないでしょうか。いつも私は師匠から言われるわけですが、「お前達は毎日正月だ」とこういわれるわけです。師匠よりもっと上の世代の方は、戦前戦中戦後の苦しい時代を生きてこられています。そういう人たちのコロナ禍に対する受け止め方はまた違ったものがありました。
ある90歳になろうかという女性の方とお話しをしていたときのことです。「私は戦争でとにかく苦労しました。長生きしてきて、またこんな事態に遭遇するとは思ってもいなかった。あぁ長生きしてきて良かった。」私は「あれ?」と思いました。「もうこんな思いするなら長生きするんじゃ無かったと仰るかな」と、不謹慎ですけど、そう仰るかなと思ったんです。でも違いました。これも長生きしていたから経験できること。苦労だって生きているから経験できること。有り難いことなんですよと教えてくれたわけです。
私たちは考え方や捉え方次第で、生き方は随分と変わってきます。そういう経験を多く聞く中で次の御教示が身にしみました。
「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。」『四菩薩造立抄』
大聖人様は決して恵まれた環境にあったわけではありません。むしろ当時の人から見てもひどくつらい状況だったわけです。でも大聖人様はその状況を恨むこと無く、信心の観点から自分自身の人生を語ります。日蓮は俗世間では日本第一の貧しき者であるけれど、もし仏法の上で論じたならば世界第一の富める者であります。今の私たちの大きな励ましとなる御教示だと思います。コロナ禍を通して、皆様も自分たちにとって大切なものは何であるかを考えたことと思います。
きっとその中には、今日お詣り頂いたように、手を合わせることの大切さ、仏様を感じることの幸福感も含まれていることでしょう。そのような気付き、これは宝だと思いますが、その宝をコロナ禍が終ったら、すっかり忘れてしまったではもったいないと思います。
コロナ禍は、もちろんこれからどうなるかわかりませんが、終息していったとしても、また同じようなことは起こるかも知れませんし、もっとつらいことや悲しいことがあるかもしれません。そのようなときでも、この数年で経験したことはきっと皆様の支えや教訓となってくれると思います。ぜひこれを機会にもう一度振り返って頂いて、皆様にとって大切なものは何であろうかを考え直す機会にしていただければと思う次第です。(合掌)
現代社会は変わらないものに価値をおいて発展してきた面があります。
確かに永遠性が担保されることは、将来への見通しを立てることが容易になるというメリットがあります。
一方、本来永遠のものなどないわけで、そういう真理にあらがうようにあたかも永遠であるかのようなものを作り出してしまうと痛いしっぺ返しがいつかは必ずあるであろうことも容易に想像ができるわけです。
環境汚染や工業汚染は教科書の中のことではなく、今も現実にあるということを意識しなければなりません。
今、「持続可能な社会」をスローガンに様々な活動が行われています。
私たちは生きていく上で消費をしていかなければならないものであるのですが、その消費の先に何があるのか、一消費者のレベルから考えて行動していかなければなりません。
そのときにあたって、絶対的な永遠などないという「諸行無常」の真理を文化や社会全体が受け入れることが生命環境破壊に対する本質的な解決の糸口になるのではないかと思います。
法師品の衣座室の三軌を調べていると、三軌には衣座室以外にも
『法華玄義』巻五下に説かれる真性軌・観照軌・資成軌の三つで、迹門十妙中の三法妙にあたる。
御書システム辞書
という三軌があることが辞書にありました。
こうなると三法妙がどういう意味が気になるので、調べて見ると、三法妙にも、真性軌・観照軌・資成軌の三法妙以外に、
心法・仏法・衆生法の三法が妙であることで、『華厳経』夜摩天宮菩薩説偈品の「心仏及衆生・是三無差別」の文に基づいて天台智顗が『法華玄義』巻二上に示した義。
御書システム辞書
の三法妙があることが分かりました。
この三法妙、意味を調べていくと、衆生法に九界、仏法に仏界、心法に心中の法を配置するそうで、その配置の仕方をとても興味深く思います。
こうやって調べていると、そのうちに当初の調べる内容とは全くずれたりすることが…、とても楽しいものです。
本日は誓願題目講を奉修しました。
カラッとした過ごしやすい天気の中、参詣された皆様と心からの唱題行に勤めることができ誠に有り難く思った次第です。
以前にも書きましたが、
門前の小僧習わぬ経を読む
という言葉があります。
お寺の周りで遊んでいた子どもが知らず知らずのうちにお経を覚えるという意味です。
子どもと言わず、大人も同じだと思います。
何気なく聞いていたことが自然と身につくことがあります。
今日はお寺の境内で近所の子どもたちが元気よく遊んでいました。
子どもたちが今日聞いた御題目を、大きくなってから、自然に口ずさんでくれたらありがたいなぁと思います。
御書の中に千日がでてきます。
千日とはどういう意味ですかと質問がありました。
千日はお酒のことです。
一酔千日という四字熟語
非常にうまい酒のたとえ。少し飲んでひと酔いしただけで、心地よくなり千日も眠る意から。出典『博物志はくぶつし』一〇故事劉玄石りゅうげんせきという者が酒屋で非常に強い「千日酒せんにちざけ」という酒を求めた。酒屋はこの強い酒の飲酒の限度を注意するのを忘れたと、千日たったころを見はからって玄石を訪ねたが、家の者は酔って眠っているのを死んだものと思い込み、すでに葬っていた。そこで墓をあばいて棺を開けたところ、大きなあくびをして、ちょうど目をさましたという故事から。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/一酔千日/
実際に檀越との間でもこの千日という言葉で交わされているので、みんなの共通認識だったのだと思います。
とても興味深いですね。
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