今日は朝から大雨です。
今年の春は本当によく雨が降ります。
寺院行事においては、感染症対策のために常時換気を行っています。
雨が降っていますから、少し肌寒く感じます。
御経日では「佐渡御勘気抄」を扱おうと思っています。
ところで、この勘気とは、
「家来や子供が、君主・父からしかりとがめられること。勘当(かんどう)の意に同じ。」
です。
佐渡流罪を幕府からの御勘気を受けたと大聖人様はとらえておられたようです。
何か悪いことをしてわけでもなく、ただ仏恩を奉ずるため法華経を弘めたにすぎません。
権力側からすれば、煩わしい存在であったのかもしれませんが、それだけの理由で人一人を流罪に出来るのですから怖い時代です。
現代を生きる私たちは、ある程度自由な環境で信心をできる有り難さを分かっていなければなりません。
本日は、宗旨建立会を奉修しました。
(御参詣の皆様には、感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
清々しい天候の中、皆様と御報恩の読経唱題に勤めることができましたこと、大変有り難く思う次第です。
挨拶では、大聖人様が
「日蓮」
と名乗られたことについてお話しをしました。
法華経神力品の御文から「日」の字を頂いたとされます。
その中に、
「斯人行世間」
とあります。
このひと世間に行じて
と読み、この人は地涌の菩薩をあらわします。
世間に行じる。私たちと同じ場にあって、法を説いて下さるということです。
どこか別の世界では無く、また高いところから見下ろすでも無く、
私たちと同じ場にあって法を説いて下さる。
仏法といえば、どこか世間離れしていると勘違いされがちですが、
斯人行世間はどこまでも私たち衆生の側にいてくださるということです。
その有り難さはもちろん、自分自身も世間にあってということを大切にしていかなければならないと感じています。
今日は寺院清掃でした。
暑い中、一生懸命掃除をしてくださり、本当にありがたいことです。
草抜きをしていると、この花が咲いています。
この花の名前を何度調べても忘れるのですが、この花はシレネコロラタというらしいです。
シレネはたくさん種類がありますが、こちらはあまり日本で流通がないのか、外国のサイトにしか名前がありません。
以前ご信徒が寄せてくれました。
可愛らしい花で毎年桜が終わる時期から楽しませてくれます。
今日もしっかり雨が降りました。
おかげさまでボタンもすっかり花を落としてしまいました。
ボタンは咲いている時は綺麗ですが、花を落とすとなんとも寂しげになります。
一方、今年はツツジが元気に咲いています。
そういえば、ツツジとサツキはどう違うのかな?
こちらのサイトに詳しくありました。
https://greensnap.jp/article/9815
このサイトによると
「ツツジ」とはツツジ科の植物の総称のことをいい、「サツキ」はツツジ科ツツジ属に分類される植物のことをいいます。つまり、サツキはツツジの仲間であるのです。どうりで見た目が似ているわけですね。
だそうです。それからサツキは花が小さくて肉厚、葉っぱも小さいそうです。
っということで写真の花は、ツツジ!…で合っているでしょうか?
NHKなどで古刹の修復作業などを放送することがあります。
どのようにして護られてきたかが修復を通して分かるので、
他門の寺院とはいえ、勉強がてらよく拝見します。
どの寺院も栄枯盛衰があることが分かります。
こんな有名な寺院でも、一時は閑古鳥の状態があったときくと
護り伝えることは難しいことなのだと実感します。
世間においても、
創業は易し守成は難し
といいます。
執着しすぎず、変化をともないながら、護るべきものを護り伝えていく。
結局は日々の積み重ねだと思います。
前回の動画でも話していますが、
仏様の説法の手段の一つに動執生疑があります。
疑いを持たせることで真実の教えに近づけさせるという意味があります。
これは仏様だからできる手段であって、相手に伝えるためとはいえ、中途半端な覚悟でこういった手法を使うと
上手くいきそうにはありません。
そもそも疑いを持つということはどういうことなのか。
これは疑心暗鬼とは違います。
当たり前に思っていることが当たり前ではないと気付くことでしょうか。
常識、非常識や時代によって語られているものが如何にもろいものであるかたに気付くことでしょうか。
時折、自分でもはっと気付かされることがありますが、いつのまにか一つの物の見方でしか物事を捉えることができなくなっていることがあります。
こういった執着心に疑いも持つということでしょうか。
そうすると、疑うと信じるということは世間的には対立することでありますが、実は同列の処にあるのではないかとも思います。
これはもう少し深めていかなければと思います。
本日は誓願題目講でした。
(御参詣の皆様には感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
コロナ禍を考慮し、題目講の時間を短くして奉修しています。
今日はとても暑い一日でしたので、
お題目を唱えていると汗が出ました。
参詣して下さった皆様と声を合わせ、呼吸を合わせ、
お題目を唱えることができるのは本当に有り難いことであると思います。
早く元の形で題目講を奉修できたらと思いますが、
ここはあせらずいきたいと思います。
法話や勉強会をするにあたり、なるべく平易に話をすることを心がけています。
それはただ難しいだけではなかなか伝わるものも伝わらないからです。
一方で、学ぶ方も必死にならないと学び取ることはできないと思います。
平易に語られているものは、あくまで平易なものでしかない場合が多いからです。
先輩たちの勉強会などにでたときには、最初は何を話しているのかさっぱり分かりませんでした。
話している内容がわからないので、とりあえず聞こえた単語を平仮名でメモをして、
それを帰ってから辞書などで調べるということをしていました。
そうやって調べてもわからないことだらけですが、そのうちに勉強会で交わされる会話の内容が
少しずつわかってきます。
会話の内容が分かってくると自分に何が足りないかも分かってくるので、その部分を重ねて勉強するようにします。
そうやって少しずつ法門の内容を学んでいっています。
学べば学ぶほど分からないことがでてきますが、少しずつ見えてくるものもあったりします。
現代はとにかくわかりやすさが優先されますが、そのわかりやすさの陰でそぎ落とされてしまった大事な部分や、
困難な内容を学んでいく過程で得る学びの本質などが失われていると感じます。
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