提撕
古い本を読んでいてあまり聞き慣れない言葉が出てきたので備忘録として。
提撕
だいせい、ていせい、ていぜい
などと読みます。
辞書には師匠が弟子を奮起させて導くこと。また禅宗などでは、師匠が語録や公案などを講義して導くこと。
また後進を教え導くこと。
奮い起こすこと。盛んにすること。
などの意味があるようです。
この撕に戒めるや教え導くという意味があるそうです。
でも、引き裂くという意味もあるらしく、熟語の成り立ちは面白いものです。
申し訳なさ
今日御参詣の方と対話している中で次のようなことが話題にあがりました。
ある方が、膝のリハビリのためにマッサージを受けていたそうです。
スタッフが丁寧にマッサージしてくれて、いろいろとトレーニングのアドバイスもしてくれたそうです。
その丁寧さに申し訳なく思ったそうです。
そのことを近しい人に話をしたら、
それでお金をもらっているのだからいいのよ
と言われたそうです。
確かに、スタッフはそれで給料をもらっていることに違いはありません。
でも親切にしてくれたことに対して、申し訳なさを感じるというのは、とても大事なことではないか。
そういう対話でした。
何だか世知辛いような、ギスギスしているようなものが多く感じるのは、このような事柄にも見て取れるように思います。
お金をもらっているのだから、当たり前…ではない「何か」が人間関係を円滑にしていくのではないかと思うのです。
その「何か」が、日本人でいうところの、申し訳なさ、勿体ない、有難いというような感覚ではないでしょうか。
義務
最近いろいろな方とお話ししていると世代間の考え方の違いに悩まれている方が多いように思います。
若い世代の考えることがわからない、やることがわからない。
というようなことは、今に始まったことではないと思うのですが、それでも、昨今、世代間の溝がかなりあるように思います。
では、何歳から何歳までがといわれると、〇〇世代なんて言い方がされますが、実際はそういう立て分けはあまり意味がないように思います。
世代間の問題にくくられがちですが、結局は、どの世代も共通の課題を抱えているように思うのです。
その課題の一つだと思うのが、権利と義務のバランスです。
話を聞いていると、権利ばかりを主張する人が多くなったように思います。
権利は、権利を守るための義務がなければ、守っていくことはできないと思います。
私がこうしたいと思うのなら、そう主張するためには自分はどんな義務を果たさなければいけないのか?を考えなければいけないと思うのです。
たとえば、集団の中で
私はこうしたい
と主張するなら、そうするためにはどんな義務を果たしたら良いかをみんなで考えなければいけないと思います。
そうしなければ、
あいつは自分のやりたいことばかりをいってわがままだ。
ここでは私のやりたいことが何も出来ない
という行き違いばかりが生じるのではないでしょうか。
逆に権利を無視して義務ばかりを押しつけるのも間違いです。
やるべきだ、やらなければならないと頭ごなしに言うのは、時に言葉の暴力にもなりかねません。
いずれにしても、何だか世の中全体において、権利と義務のバランスが崩れているように感じます。
ゴーヤ
今年の緑のカーテンの準備のため、ゴーヤの苗を買ってみました。
まだまだ小さい苗なので、少し養生をしてから植え付けようと思います。
ちなみにこのゴーヤの苗は買ってきたポットから一回り大きいポットに植え替えをしました。
いつも買ってきた苗をすぐに植え付けると、育ちが悪い気がして、苗木屋さんに相談したら、
環境にならすために、一度植え替えをするといいんですよ
と教えてくれました。
ということで、買ってきた苗は基本的に植え替えしてから、鉢か地植えに植え付けをするようにしています。
お陰で生育不良はほとんどなくなりました。
試す価値ありです。
雑記
今日も暑いような、しかし、何だか肌寒い一日となりました。
明日は暑くなるようです。
サツマイモを植えようと思っているのですが、いつ植えようかとヤキモキしています。ヤキイモだけに…。面白くない。
しっかり根は生えてきているので、もうそろそろ植え時なのですが。。
ところで、時正という言葉があります。
一日の昼と夜の長さが同じことで、いわゆる春分、秋分です。また彼岸会の時期をいうこともあるようです。
なぜ、こんな時期に時正の話?と思うかもしれませんが、特に意味はありません。
あまりに天候がはっきりしないので、季節の言葉を調べていたところ、ちょうど目に付いただけです。。
御報恩御講
本日は五月度の御報恩御講を奉修しました。
あいにくの雨模様でしたが、深信の御参詣を賜り誠にありがとうございました。
謹んで宗祖日蓮大聖人への御報恩謝徳を申し上げました。
法話では浄蓮房御書についてお話しをしました。
浄土宗に対する的確な批判から、亡父への供養のあり方が示されるとても有難い御書です。
近しい人が自分と信仰を異にすることがあります。
信仰に真摯になるほど、南無妙法蓮華経を信仰してくれれば良いのに…と思います。
浄蓮坊のお父様も念仏の信仰をしていました。
大聖人様はそういう浄蓮坊に対し、
あなたとお父様は繋がっている。だからあなたが法華経の題目から得た利益は必ずお父様にも届くのだ。
と仰せになってくださっています。
信仰を異にするからつながりが切れるわけではありません。
信仰を異にしたとしても、それでもその人のことを祈るという、自分自身の信心が試されているともいえるかと思います。
御逮夜法要
本日は、御逮夜法要を奉修しました。
謹んで仏祖三宝尊へ御報恩謝徳申し上げ、宗祖日蓮大聖人への御報恩を謹んで申し上げた次第です。
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法話の中で、お話しするために「細美」について調べていました。
これは粗めの麻布を指すそうですが、もともとはかなりの上等なものであったようです。
それが時代を経るにつれて、粗い麻で色を抜いていないものをいうようになったそうです。
鎌倉時代がどうであったかはわかりませんが、時代的にはまだ高級品の部類であったのかもしれません。
下記の資料がとても参考になりました。
しなければならない
親の介護はしなければならないのですか?
というような相談を受けたことがあります。
当たり前だ!なんて親不孝者だ!
と怒る方もいらっしゃいますが、現在の介護問題の状況を考えると、いろいろなことが心配になって上記のような思いを吐露する気持ちも分かります。
また、親子関係はとても複雑なものですから、
そんなこと当たり前だ!
では片付けられない現実があるのだと思います。
そういうとき、
しなければならない
という言葉の重さが事を悪くしているなと感じることがあります。
真面目な人ほど「しなければならない」に義務感や責任感を強く感じて、疲れてしまうように思うのです。
お寺にいると、いろいろな別れに巡り会います。
その中には、親の介護ができない急な別れもあります。
このような別れの場合、したいけどできくなったしまった親への思いをどこに向けて良いかも分からないということがあって、これはとてもつらいことでもあります。
そう考えると、
しなければならない
よりも、
私たちはすることができる機会に恵まれた
というような感じで思うことができれば、少しは不安を和らげることもできるのではないかと思います。
雑記
差別をなくすためには、他者を理解することが必要だというのはもっともなことで、そのためには、自分たちの枠組みを外へと広げていくことが大事であるというようなことが言われます。
先日、テレビで紹介されていたリチャード・ローティもそのようなことを言っていたようです。
そうやって他者を理解することが社会の中で違いを受け入れつつ平等を実現していく第一歩であると思います。
ところでこの枠を広げていくというアプローチと宗祖の他者へのアプローチは少し方向が違うと考えています。
宗祖の場合は、枠の外の他者を自分の中に引き込む、自分の中に観るというような方向ではないかと思うのです。
転重軽受や逆縁の思想などに触れると、特に曾谷入道殿許御書に仰せのように末法総逆縁という法門には、「題目を信仰する自分たち」という枠すら消し去り、枠の外の他者を内包していくようなあり方ではないかと。
現代社会で同じようなアプローチは可能なのでしょうか。
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