雨が降り続いています。
こういう雨の降り方は梅雨らしいといえば梅雨らしいのですが、平成30年のときのことが思い出されてとても嫌な感じです。
あの時はもっと激しい雨が長く降り続きましたが、最近は短期間でも予想を超えるような雨の降り方をします。
皆様十分に気を付けて、そして、とにかく早め早めの行動が一番です。
私は大丈夫とは決して思わずに、行動してください。
助けが必要な場合は、声を上げることが大事です。
誰かしら、何かしらのところが動いてくれるはずです。
何度もいいますが、早め早めの行動をお願いします。
今日は寺院清掃でした。
暑い中長時間にわたり清掃をしていただき本当にありがとうございました。
清掃終わりにお茶を飲みながら、みんなでお話をしました。
思いがけないところから、とても深い内容となりました。
私たちは過去に起きたことを、ただ失敗として覆い隠すのか、失敗したことを否定し続けるのか、そして失敗を認めて何を教訓とするのか。
信仰の立場から考えるなら、3番目の失敗を認めてそれを教訓とすることが大事だと、皆で確認をしあいました。
無かったことにはできないし、ただ否定するだけでは意味がありません。
終わったことにはさせないためにできることは、当たり前ですが学び続けることであろうと思います。
学習がある程度のレベルになるまで、1000時間とか3000時間とかかかると言われているそうです。
1000時間というなら、一年間にすると毎日3時間弱。
他にも数字で示す指標に、3日、3週間、3ヶ月などもあります。
上記のタイミングを上手に乗り越えると長く続けて事を行えるそうです。
そういえば、石の上にも三年。
桃栗三年柿八年。
昔から指標になる数字は結構大事にされていたんだなと思います。
夕方、境内の草抜きをしていると、通りかかった配達の方が声をかけてくれました。
少し世間話をして、配達の方が立ち去ったあと、近所の小学生が、
「あれ、知り合い?」
と聞いてきました。
「あぁよく配達に来てくれる人よ」
と答えると、
「すげぇな」
といって走って行きました。
なにがすげぇのか。
たぶん、あまり関係が深くなさそうな方と世間話をしていることが不思議に感じたのだと思います。
たしかに、最近世間話、特に見ず知らずの人との世間話というのは少なくなってきたのかなと思いました。
なにもすげぇことはないのですけどね。
暑いね。
とか。
涼しいね。
とか。
疲れるね。
とか、そんな何でも無い話をしているだけですから(笑)
でも、世間話をした後って何だか心がホッとする感じがします。
法眼寺玄関のスロープの上に鳥が巣を作っているみたいです。
鳥は見えないのですが、どうもセグロセキレイの巣のようです。
セグロセキレイは草抜きを癒やしの面で支えてくれているので、糞害が気になりますが、ちょっと様子を見てみることにしました。
先日ヒューマニエンス「“友情” 集団で生きるための発明」というテレビ番組をみました。
今、寺院内でももう一度横のつながりを持ちましょうということを声かけしているのですが、私たちはやはりつながりの中で生きているということを改めて感じさせる番組内容でした。
「孤独を体の痛みとして認識する」
このような指摘がありました。
私たちはとても多くの人とつながれる時代になったはずでは?
若者はSNSを駆使しながら、しかし絶えず寂しさを感じているといいます。
そもそもたくさん友達が必要なわけでもない。
いや、むしろ幻想で作られたような友達を求めすぎるとろくな事がありません。
とにかくそれなりの人間関係を作っておくことが大事です。
そのうちに自分のことを大切にしてくれる人があらわれることもあるでしょう。
そういう当たり前に行われてきた人間関係の構築の流れが今失われてしまっているようです。
そして、それは若い人だけの問題ではない。
ご年配の方も孤独を感じているようです。
多くの人とつながらなくてもよいから、もう一度横のつながりを意識して生きていかなければいけない時代になっているのではないでしょうか。
昨日の誓願題目講が終った後、参詣者の方々と少し長い時間話ができました。
そこで話題になるのは現代社会のいろいろな問題のことです。
空き家問題
耕作放棄地
教育
働き方
経済格差
皆様の意見を聞くと、なるほどなと思うことも感じることも多くとても勉強になります。
そして現代の社会が抱える問題がいかに多いかも感じます。
もちろん私たち個人個人が何か解決させることができるわけではありませんが、とはいってもこのまま無視をしていても良いことではありません。
やはり、多くの場所で多くの人が問題意識をもって話をしていくことが、波となり動きとなり、社会を変えていくことにもなるのではないかと思います。
本日は誓願題目講でした。
足元の悪い中御参詣をいただき誠にありがとうございました。
当宗は行を大切にする宗派であり、唱題行もその一つです。
お題目は唱える姿勢と唱えさせていただく姿勢があり、行という意味では唱えさせていただけるありがたさも感じなければならないと思います。
お題目を唱えたらどうなるかよりも、お題目を唱えること自体の有り難さを感じることができれば素晴らしいことだと思います。
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