化城喩品に、
すなわちこの化を作しおわって、衆を慰めて言く、『懼るることなかれ。汝等、この城に入りなば、各々楽う所に随うべし』と。
とあります。
化城の譬えにでてくる一節です。
この
衆を慰めて言く、『懼るることなかれ。
は、
人々をなぐさめていった。心配することはない
と訳せます。
この一節を拝読して、宮沢賢治の雨ニモマケズの雰囲気を思い出しました。
法華経を深く読んだ宮沢賢治は、こういった法華経の仏様の慈悲の姿を追い求めていたのでしょうか。
今日は寺院清掃でした。
冷たい風がふくなか、皆様一生懸命に清掃をしてくださいました。
本当に有り難いことです。
掃除には二つあると思います。
①汚れているものを綺麗にする掃除。
当たり前ですが、汚れているところを綺麗にするのが一つ目の掃除です。
②汚れないようにするための掃除
もう一つは、汚れないようにするための掃除です。
汚れというのは汚れているところにたまっていきます。
ですからいつも綺麗にしておくことで汚れないようにするという掃除です。
日々の信心は、この②に似ていると思います。
自分の心が様々なことで濁ってしまわないように、日頃から心を大事にしておく。
私たちの心は放っておくとすぐに濁り汚れてしまいます。
嫌なことを考え、怒りにとらわれてしまうようなところがあります。
ですから、日々の信心の中で自分の心を整えていくことが大事かと思います。
そうすれば、もし心が濁ってしまうようなことがあっても、また元の状態に戻すことも出来るはずです。
今日は晴れでしたが、その分朝の冷え込みが厳しくなったように思います。
昼頃になると、風は冷たいですが、太陽の光はとても暖かく感じました。
ということで毎年恒例のトマトの種まきをしました。
相変わらず種が小さいのでどこに蒔いたが分からなくなってしまいます…。
発芽率には覆土の量も関係するらしいので、今回はだいぶ気を使って土をかぶせました。
準備していた温床も、ある程度温度が上がってきたので、何とか発芽してくれるのではないかと期待しています。
昨年、動画では様子をお伝えしたので、トマトの様子はこちらのホームページで紹介していきます。
倉敷では珍しい雪が降りました。
雪の撮影は難しいです。
この写真は動画から切り出したのですが、結構降っていたところを撮影しています。
ですが、降っている雪を映すのはなかなか難しいんですね。
テレビなどで撮影している人たちがいかに高い技術で撮影しているかを痛感します。
こういった技術というのは、外から見ると簡単そうですが、やってみるとその難しさがよくわかります。
神は細部に宿るといったりしますが、とても細かい微調整によって違和感のないものが作り出されていくのだと思います。
よく職人さんが最後は手に触れた感触を大事にするということを仰いますが、そういった微調整のなせる技でしょうか。
ということで、少しだけですが雪の動画を撮影しましたので、明日アップする予定です。
土日にかけてまた冷え込むようです。
くれぐれも大事にお過ごしください。
実は昨年の今日あたりから、毎日投稿を続けています。
うっかりミスで更新が出来ていなかったり(今日もパソコンの都合で投稿が遅れています…)、投稿の内容が薄いものになったりしていますが、とにかく毎日続けるんだ!ということでやってきました。
ホームページ見てますよ〜
と声をかけていただくのが本当に有り難いことで、
何でもいいから更新して下さい
というお言葉に甘えさせていただいております。
今後はどうしますか?
ということですが、なるべく今後も毎日投稿を続けていきたいと思っております。
拙い寺日記ですが、今後もお付き合いいただければ幸いです。
守護と地頭、ついついどちらがどちらで頭が混乱します。
守護は、
治安維持のため軍事、警察権を行使する地方官。
地頭は、
土地の管理や税の徴収、治安維持などを行った。
両方とも治安維持が入っている!
こういうところが歴史を学ぶときに混乱しやすいところです…
この二つには非常に大きな違いがあって、
守護は国ごとに、
地頭は荘園ごとに、
設置されました。
管轄が違うというわけですね。
とはいえ、互いの権力の行使される範囲が重なったりすることもきっとあったんだと思います。
そして、守護は後に守護大名に変わっていきます…と覚えていたのですが、町時代には守護と大名をしっかりと使い分けていたようです。ということは守護大名という名称はあっているのでしょうか…。
こういった歴史の用語は研究の進み具合によっても変化していくので、丁寧に見ていかないと混乱してしまいますね。
飢饉について少し話題が出たので調べ直してみました。
よく飢饉というと干ばつが思い浮かばれます。
しかし、飢饉の要因はそれだけではありません。
干ばつとは逆に長雨や、虫害、虫害、噴火による冷害など。
また人的要因には戦争や偏った経済行為が要因となります。
どれか一つが原因となるわけではなく、複合的な要因が深刻な飢饉を生み出します。
たとえば有名な天保の大飢饉は、
主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きくかった。19世紀前半は太陽活動が低調だったことに加えて、仙台藩士の花井安列が書き残した日記の1835年4月の項に、このところ日の出が赤い旨の記述があり、日本から見てほぼ地球の反対側にある中米ニカラグアにあるコシグイナ火山で同年1月に起きた大噴火による日傘効果による気温低下が冷害を悪化させた可能性が指摘されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/天保の大飢饉
などが要因として指摘されています。
現在でも米の虫による深刻な虫害などは起きていますし、昔は貯蓄などの設備などもないわけですから、どれだけ大変であったかは想像できません。
こういうことを調べるといつも思い行き当たるのが、食品廃棄の問題です。
食品廃棄ゼロ!
…なんてことはできませんが、少しでも少なくしていく、食品の価値を見直す、地産地消の流通の見直しなど、個人の範疇でもできることは多くあるのではないかと思います。
孝は儒教に由来する部分が多く、社会性を保つ意味でも重要な道徳的観念です。
しかし、ときに信心はその孝を飛び越えることを是とします。
これは、宗祖が報恩抄にも仰せのように、世間からみれば間違った生き方であると批判されることもあるわけで、なかなか理解するのは難しいし、理解してもらうのも難しいと思います。
ただし、儒教では、何も親の言うことに逆らってはいけないとまでは教えていないという見解を見たこともあります。
考えてみれば、親が行こうとしている方向が間違いなら、たとえそれが親に逆らうことであるとはいえ、全力で止めることができるのも子においてはいないわけで、ある意味、真の孝とは、真に相手の立場を想うところにあるのかなと考えています。
本日は、誓願題目講を奉修しました。
寒波の影響で大変寒い中、御参詣を頂いた皆様と唱題行に励むことができました。
ご参詣頂き誠にありがとうございました。
お題目を唱えていると言葉にならない有り難さを感じることがあります。
ときにとても頭がスッキリして御佛意をいただくこともあります。
御先師が御教示の通り、余事余念なくお題目を唱えることができたときにはきっと大変な法悦をいただくことだと思います。
そういったよろこびを伝えていくことがお題目を弘めることの第一歩かと思います。
意味や価値などにあまりとらわれず、お題目から得たよろこびを語ることができるように、お題目を唱えていきたいですね。
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