宗祖の御書「生死一大事血脈抄」に
浅猿
という言葉がでてきます。
これ「あさまし」と読みます。
なぜ猿?
と思われるかもしれません。
これは、猿の旧字体に猨とあります。
なので、表記によっては、浅猨とある場合もあります。
さるは別名で「ましら」とも言います。
世代によってはよくご存知だそうですが、私は知りませんでした。
このましら、調べて見ると、南方熊楠の説によればサンスクリット語に由来するそうです。
それで、「あさ」と「ましら」で浅猿と当て字でなったのではないかと、私の勝手な説です…。
語源を探ったのですが、わかりませんでした。
また分かったらここで書きたいと思いますが、想像するに分からなそうです…。
もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
子どもを教育するのは何故か?
子どものため?
子どもの幸せのため?
子どもを社会に適応させるため?
子どもを効率よく働かせるための人材としての育成のため?
教育の本質とは何であろうかと思います。
学校教育から聞こえてくるもの、会社等の組織において社会人教育から見えるもの、そこには多くの他者の都合に合わせた名ばかりの教育が見え隠れしていると感じます。
教育=〇〇〇〇である…などと断定的に語れるものではないことは分かっています。
現場の教師の立場の人たちは、大変な苦労をして教育の一端を担ってくれています。
私たちは学校や社会に多くを求めすぎなのではないでしょうか。
社会全体の押しつけや責任逃れが教育の劣化を生み出していると感じます。
私は教育とは、考えることを学ぶことであると思います。
別に答えなんてなくても良いですし、答えにたどり着けなくてもよいと思います。
そもそも社会の多くの事柄には答えなんてありません。
それよりも、様々なことを当たり前にするのではなく、自分で考えるということを学んでいくことが教育であると思います。
読み書き、計算はもちろん、なぜご飯を食べられるのか、なぜ社会にはお金があるのか、なぜ人は生きているのか、なぜ他者を大切にしなければいけないのか。
誰かに教えてもらうのと同時に、自分で考えること。
…と、自分なりに教育とは何であるかを考えています。
もちろん、私の考えが正解であるわけではありません。
ぜひ、教育とは何であろうかと考えてみてください。
いや、むしろ、考えなければならないと思います。
前時代の教育を否定したり肯定するだけではどうにもならないくらい、教育は多くの課題を抱えていると思います。
若い世代と信心の話をしていると、信心に対する受け止め方に戸惑いを感じている様子があることに気付きます。
これは、信心とは何ですかと語れる人が少なくなったこと、そもそも信心時代を語り合うことが少なくなっていることに起因していると思っています。
ですから、若い世代からすると、信心とは得体の知れないもののように感じてしまうわけです。
ですので、若い世代から「信心とはどういったものですか?」と問われると、「特別なものであるとは思わないでください。信心とは皆が思っている以上に身近なものです。美術や芸術などもそうですが、小難しく、また世間から離れたものとして特別視することで箔がつくような風潮がありますが、それは違います。私たちのもっともっと身近なものとして、私たちを支えてくれるものです。」
といつも答えるようにしています。
そうすると多くの方々が、信心に対する見方を変えてくれるようです。
とにかく何だか特別な何かのように語るのはよくありません。これではまるで奈良時代の仏教のようです。
民衆のための仏教であるべきだと思っています。
明日は、「法華経のはなし」の第39回をアップできる予定です。
月末ということもあり、瓦版の準備や、今月は総会もありましたので、寺報出藍の準備もしております。
原稿を整えたりしていく中で気付くことも大変多くあります。
世の中の多くの部分は、編集ということが非常に肝心であると思います。
編集をするということは、自分から発信したものを相手に伝えるために手を加える、相手の気持ちになって自分が発信したものを考えるという作業になります。
伝える相手のことを考えて行うことは全て編集といっても良いのかもしれません。
…とはいいすぎでしょうか。
しかし、編集していくことで、我が強くでてしまっていることを抑え、他者のために何を伝えるべきかが明らかになってきます。
それだけにとにかく編集は難しいと感じます。
以前、印刷所の方から編集のことを少しだけですが教えてもらいました。
そこには、「世に出す」ということの責任の重大さがありました。
それを思い出す度に、自分のやっていることを編集だというのは本当に憚られて仕方有りません。
日有上人の化儀抄に、
「仏意計り難し、失によるべきか」
という御文があります。
昔は起請文というのがあって、何かトラブルや、約束事などがある場合に、それを文章にして神仏の照覧を仰ぐというものです。
今こういうったことを聞くと、なんだか幻想ような話に聞こえるかもしれませんが、当時の人には非常に拘束力のあることで、起請文に違えることがあると仏罰を蒙りますから、非常に重みのあるものでした。
そして、では起請文に書かれた内容の正邪はどう判断されるかと言えば、さきに上げた御文の通りです。
仏様の御心にお任せするわけです。
怖いですね。
嘘はつけませんし、神仏を欺くことはできません。
こうやって人間が増長するのを防いでいたといえば、これは技法的な話になるので、そうではなくて、やっぱり人間の心情として、この仏意計り難しというのは必要なのではないかと思います。
仏様と自分。
その対話を通して、我が身を省みる。
なんども言いますが、
嘘はつけませんし、神仏を欺くことはできません。
今日は、土曜日公開予定の「法華経のはなし」の撮影と編集に取りかかりました。
今回は開示悟入についてもっぱら話しているのですが、編集している段階で話し足りない部分に気付きます。
一応全体を話した上でもう少し詳しく話した方が良いのか考えたりしています。しかし、話せば話すほど上手く伝わらないかもしれないとも思います。
開示悟入はいろいろなことのヒントになる教えだと思います。
なぜ、最初が開なのか。
残り三つの段階はどういう意味を持つのか。
これらに考えを巡らすと、人間関係の構築の仕方や、物事を教えること、例えばとても苦しんでいる状況の方に手を差し伸べる方法など、いろいろなことに照らし合わせて考えることができると感じています。
やっぱり、いずれちゃんと考え直した上で、もう一度話をできればと思っています。
いつも皆様にはお付き合いいただき本当にありがとうございます。
方便品に、
「若し法を聞く者有れば、一として成仏せずはなし」
とあります。
この「法」はもちろん「法華経」のことです。
これは衝撃的な宣言ですね。
法を悟ることもなく、理解することもなく、とにかく聞くことができれば、成仏を必ずできると仰せなのです。
聞法の功徳につながる教えです。
この「聞く」、どうやって聞くのかをいつも考えます。
ぼーっとして聞くのか、一生懸命聞くのか、漫然と聞いているのか…
釈には、「よく聞くこと」とあります。
ただ、釈によっては「こちらの意志にかかわらず、耳にすることができれば…」というものもあるようです。
それでも、この「聞く」は「求めて聞く」という姿勢が肝心だと思っています。
せっかく仏様の教えがあるのであれば、
聞かされた
ではなく
求めて聞く
の姿勢でありたいと思うからです。
今日は、誓願題目講でした。
(御参詣の皆様は感染症対策へのご協力誠にありがとうございます)
この時期になるとお題目を唱えているとすぐに汗ばむようになります。
冬の唱題も、体が熱くなってくる感覚がありますが、この時期の唱題も、内から熱くなっている感があり、お題目から非常に力をいただける感があります。
とにかくお題目を唱えていると御佛意をいただく、気付きが本当に多いと思います。
皆さんの題目の中での気付きをお聞かせ頂くと、十人十色ですが、とても納得させる話ばかりです。
「行」というのは、机の上でどれだけ考えても駄目で、やっぱり実際に行ずることが大事です。
そんなの当たり前ではないか?いいえ、真に行ずることは本当に難しいのです。
ですから、真の行から得られる御佛意もなかなか得ることが難しいのです。
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