学生時分、言語学の先生が、
「言葉がなくなるということは、その文化が消えるということです」
と教えてくれました。
とても楽しそうに言語学のことを話してくれる先生でしたが、この時はいかりと悲しみの表情で語られていました。
共通言語というのは便利ですが、便利さというのは多様性を失わせてしまいます。
多様性がないということは、変化がなくなり、変化がなくなるということは、進化も生み出さなくなります。
以前から合理性によって失われることがあるとここでも書いてきていますが、一時的な合理性を追求するには多様性はある意味もっとも邪魔な物になってしまいます。
話は戻って、言葉が失われることは文化が失われるというのは、文化だけではなく、もしかしたらこの先の未来の変化や進化も失ってしまうのではないかと大仰なことを考えたりします。
当宗では勤行の中で観念を行います。
声には出さず、心の中で深く深く念じます。
なにを念じるかといえば、観念文を念じます。
その観念文の意味を質問されることが多くあります。
説明をすると、皆さん
そんな深い、またいろいろな意味があるのですか!?
と驚かれます。
短い御文にはなりますが、確かに仏法のエッセンスがつまったような内容です。
意味を一つ一つ取ることはなかなかできませんが、しかし、大切に観念をしていただきたい御文です。
大聖人様の御書によく
小袖
がでてきます。
小袖は、wikipediaなどにも詳しいですが、現代の着物と比べれば、袖の丈が短く、身幅が広いものになるようです。
検索して頂ければわかりますが、現代の着物よりもとても着やすい感があります。
もちろん着る物などは時代によってかなり変化するものでしょうが、いずれにしても平時から着ることのできるものです。
たとえば、女性のおはしょりは、一節には、着物を毎日着ていると裾が痛んでくるので最初から長めのものを折り返して着ていたそうです。
それが一種の流行にもなったとも言われています。
たしかに中世の時代劇などでもおはしょりのない着物をきている女性がでてきます。
着物を着るということに関して、いろいろと作法が多くなりすぎてしまっている気がします。
男女とももっと普段着で着れるようになればいいのにと思います。
なんだかもとの話から随分それてしまいました…。
難しい事柄をなるべく易しく説明することが求められる時代だなと思います。
たしかに物事を理解する上では、その人がある事柄を理解していればいるほど、噛み砕いて説明することができます。
ではどうやって易しく説明するのかということですが、それにはまず理解を深めることが大事で、理解を深めるためには、複数の視点を持つことが大事だと思っています。
自分自身の目線だけでなく、他者の目線や考え方、とくに自分の考え方とは逆の思考、批判的な視点が必要ではないでしょうか。
なるべく色々な人を想定していくと良いと思います。
一方で、難しいことは難しいことのまま受け止めていくことも大事ではないでしょうか。
なんでも簡単に、たった一つの理由、そういう単純化された時代に恐ろしさを感じます。
よく聞かれるのですが、畑では基本的に殺虫剤などの農薬は使わないようにしています。
口に入るものだからという理由と、やりだしたらキリがなくなることと、育てた作物を自然と分けっこするのも共生という意味では大事であろうと思うからです。
とはいえ、毎年コガネムシに食べられる食べられる。
特にトマトは厳しいものがありました。
ところが今年はあまり食べられませんでした。
その理由の一つが、いやむしろこれしか理由がないと思うのですが、冬の間の土起こしでした。
こんな感じの…
道具を使って、空気が入るように土を起こしただけです。
例年も行っていましたが、わりと念入りに行いました。
でもこんなに効果があるとはびっくりです。
今年も取り組むつもりです。
この写真ではわかりにくいですが、
お昼頃、晴れているのに雨が降りました。
とてもきれいな晴天でしたが、雨が降るので、それこそ狐の嫁入りでした。
狐の嫁入り…。
調べてみると、
日が照っているのに雨が降ること
という意味以外に、
夜中に、山野で狐火が連なっているさま
という意味があるそうです。
確かに夜中に狐火を見れば、狐にばかされたような気にもなりますが、今日の天気も十分狐に摘まれたような感じでした。
夕方の雲です。
大気が不安定なようです。
ころころ変わる天気が続きますね。
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ここでわかったら、あなたは大変カエル好きです!
分かりましたか?
中央部分の葉っぱに隠れています(笑)
今年のトマトも収穫時期を終えたので、次の畑の準備のためにトマトを抜きました。
トマトの葉っぱで暑さをしのいでたカエルさん達には申し訳なかったです。
今日はとても強い雨が降りました。
暑い日々が続いていたので、少し涼しく感じました。
秋雨になっていくのでしょうか。
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仏教用語に絶待があります。
この絶待をもとに絶対という言葉が作られたようです。
意味合いは違います。
絶対は対立する中での個の意味を持ち、絶待は対立を超越するという意味です。
…ととらえています。
こういう用語は辞典で調べてもなかなかつかめないので、実際に使われている文章の中で解釈を深めていくしかないでしょうか。
今日は誓願題目講を奉修しました。
盂蘭盆会法要、また夏期修養会に引き続き、御参詣をいただきまして、誠にありがとうございました。
今日も暑い一日となりましたが、元気よくお題目を唱えることができました。
この法華経の教えは浄土は今世にあると捉えます。
それは、自我偈に常在霊鷲山とあるからです。
つまり仏様は私たちの側にあっていつも説法をしてくださっている、いつも霊鷲山の説法の会座にあると説かれているのです。
ただし、それはあくまで私たちが法華経に対する信をもっていればのことで、日頃の生活の中では、なかなか信をたもつことはできません。
ですから、今世が浄土と観るには、やはりお題目を唱えることが肝要です。
一人ではなかなか唱えきれないお題目です。
互いに励まし合って唱えてまいりましょう。
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